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「タテパノラマ」の「芦屋の街」編。今回は、芦屋浜シーサイドタウンの、さらに南に造られた埋め立て地の街、「南芦屋浜地区」です。芦屋では新しいこの街は、阪神淡路大震災後に完成したので、僕にも家族にも別に思い入れとかはないのですが…NO.1424 芦屋市南浜町潮芦屋ビーチ2016年11月01日(*↑ とにかくこの海が写したかったのです。芦屋の南の果ての海! ) NO.1423 芦屋市南浜町潮芦屋ビーチ2016年11月01日(*↑ 神戸方面(西)を向くとこうです ) NO.1422 芦屋市南浜町潮芦屋ビーチ2016年11月01日(*↑ そう、これは新しい埋め立て地の南西角に造られた、人工の砂浜です。昔かつてあった砂浜からだと、随分と南に出来た今の芦屋の砂浜です ) NO.1421 芦屋市南浜町潮芦屋ビーチ2016年11月01日(*↑ 東を向くとこうです ) NO.1420 芦屋市南浜町潮芦屋ビーチ2016年11月01日(*↑ そもそも僕が芦屋に引っ越してきた子どもの頃には、まだちゃんと残っていた砂浜。せっかくのそれを埋め立てて無くして、さらにその沖も埋め立てて、そしてその先にわざわざ人工砂浜を造った。ステキと言えばステキだけれど、ヘンテコと言えばとてもヘンテコ。今のこの国の人というものは本当に手間な生き物です ) NO.1419 芦屋市南浜町潮芦屋ビーチ2016年11月01日(*↑ ちゃんと防風林も ) NO.1418 芦屋市南浜町潮芦屋ビーチ2016年11月01日(*↑ 海です。砂浜です。ここに立って心おどりました ) NO.1417 芦屋市南浜町芦屋市総合公園2016年11月01日NO.1416 芦屋市陽光町芦屋市総合公園2016年11月01日(*↑ 向こうの高架は阪神高速湾岸線です ) NO.1415 芦屋市陽光町キャナルパーク2016年11月01日(*↑ 見えているのは潮風大橋 ) NO.1414 芦屋市陽光町キャナルパーク2016年11月01日(*↑ この運河に沿ってずっと遊歩道が続いています。いい季節はキモチがいいでしょう。釣りもできるようです ) NO.1413 芦屋市陽光町キャナルパーク2016年11月01日(*↑ 対岸には最初の埋め立て地・シーサイドタウンが見えます。その向こうには六甲山も眺望出来、いい景色ではあります ) NO.1412 芦屋市潮風大橋2016年11月01日(*↑ 埋め立て地の西側を繋ぐ「潮風大橋」です。ここは車道でもありバスも通ります。橋の向こうに高層住宅が覗きます ) NO.1411 芦屋市陽光町陽光緑地2016年11月01日(*↑ 南側からシーサイドタウンの高層住宅を眺めるのは、僕にはなんだか妙な感じでした。でもここでずっと暮らしている人には普通の景色なのでしょうね ) NO.1410 芦屋市陽光町陽光緑地2016年11月01日 NO.1409 芦屋市あゆみ橋2016年11月01日(*↑ 新しい埋め立て地と最初の埋め立て地は、3本の橋のみで繋がっており、西に「潮風大橋」真ん中に「あゆみ橋」東に「浜風大橋」が渡っています。両端の2本は自動車も通行できる大きめの橋ですが、この「あゆみ橋」は歩行者と自転車専用のみの生活用の橋です。これは「あゆみ橋」から北を向いたところです ) NO.1408 芦屋市あゆみ橋2016年11月01日(*↑ 新しい埋め立て地と最初の埋め立て地の間は、海で少し間があいており運河のようになっています。名前も「キャナルパーク」と付けられて、ここでカヌーやボートの競技もよく行われているようです ) NO.1407 芦屋市あゆみ橋2016年11月01日(*↑ 「あゆみ橋」から南を向いたところです。向こうに新しい埋め立て地「南芦屋浜地区」があります。この先で橋の上を渡っている道路は阪神高速湾岸線です ) NO.1406 芦屋市あゆみ橋2016年11月01日(*↑ 最初の埋め立て地から新しい埋め立て地へ渡る「あゆみ橋」に入ってすぐのところです ) NO.1405 芦屋市若葉町2016年11月01日(*↑ シーサイドタウン内の宮川の一番南の端から北側を見ています。最初の埋め立て地ではこのあたりが最南端でした )
これまでの「僕に踏まれた風景(タテパノラマ)」はこちら。それから、なんで「僕に踏まれた風景(タテパノラマ)」をやり始めたかの説明は、「No.1〜21」の回のページの写真たちのずっと下の文章に書いてます。そんなこんなです。
「タテパノラマ」の「芦屋の街」編。そして芦屋浜シーサイドタウンの「その3」です。NO.1404 芦屋市若葉町潮見橋2016年11月02日(*↑ この宮川の一番南にかかっている歩行者用の「潮見橋」のすぐ東側に、ひと棟だけポツンと離れて建っている高層住宅があります(写真の左上)。たしか、ここ一帯の高層住宅は外観は同じでも、県営、公社、公団などさまざま運営形態があったはずです。で、このポツンと建っているこのコは唯一の民営の高級分譲高層住宅だったと思います。学生の頃に芦屋の郵便局で小包等の配達アルバイトをしたことがあって、何度かこの建物にも届けに来ました。他の建物では当時誰でも自由に出入りできたものですが、ここはちゃんとマンション式に管理人がいて見張られていました。エントランスからして他とは違う高級感もあって「ほぉ〜」と思ったものです。今は詳しくどうなっているのかは知りませんが、多分現時点でもきっとそんな感じだと思います ) NO.1403 芦屋市若葉町潮見橋2016年11月02日(*↑「潮見橋」の真ん中あたりから北側を望んだ景色です。はるか向こうに六甲山が見えます ) NO.1402 芦屋市高浜町潮見橋2016年11月02日(*↑「潮見橋」から西方向を見たところです ) NO.1401 芦屋市高浜町2016年11月02日(*↑ ここはこの街が完成してから随分と長い間空き地で、阪神淡路大震災の後には仮設住宅が建っていました。そして僕の実家の家族も震災後1年半程ここで暮らしていました。僕も神戸の自分の部屋からよくここへ通ったものです。今では住宅地になり一戸建てが並んでいます。でもこの看板があるということは、まだ空きがあるのかなぁ ) NO.1400 芦屋市高浜町2016年11月02日(*↑ 歩道橋になったところから南を見下ろします。この駐車場のところ住宅街のところ全てに、阪神淡路大震災後の仮設住宅がダーッと並んでいました ) NO.1399 芦屋市高浜町2016年11月02日(*↑ 今は駐車場への裏口みたいになっていますが、震災後の仮設住宅がここにあった時からこんな感じで、よくここからも敷地に入りました ) NO.1398 芦屋市高浜町潮見橋2016年11月02日(*↑ 汐見橋から仮設住宅があった場所を眺めます ) NO.1397 芦屋市若葉町2016年11月02日(*↑ 汐見橋の近くで北方向を。向こうの橋が宮川大橋で、その右がダイエーになります ) NO.1396 芦屋市高浜町2016年11月02日(*↑ 宮川大橋の上の歩道から東を向いています。左の白いところがダイエーになります。ここからのこの景色はやはり今観ても、まだまだちょっと未来的でカッコイイ。何体かのロボットが並んでそびえているようにも見えます ) NO.1395 芦屋市高浜町2016年11月02日 NO.1394 芦屋市高浜町宮川大橋2016年11月02日(*↑ シーサイドタウン内で宮川の上にかかっている宮川大橋からです。ダイエーの南西方向に位置します ) NO.1393 芦屋市若葉町2016年11月02日(*↑ 宮川の西側になります。この先、川を越えるとダイエーやシーサイドセンターになります。下はシーサイドタウンの中心を走っている大きな道路です ) NO.1392 芦屋市若葉町2016年11月02日 NO.1391 芦屋市若葉町2016年11月02日 NO.1390 芦屋市緑町2016年11月02日(*↑ 中央緑道の西の端あたりから東(シーサイドタウン中心部)を向いたところです ) NO.1389 芦屋市潮見町2016年11月02日(*↑ シーサイドタウンの西の端の岸辺から、バス通りのある東を向いたところです。正面が、中心部方向と南方向へのバスの分岐点になってます )
「タテパノラマ」の「芦屋の街」編。そして芦屋浜シーサイドタウンの「その2」です。NO.1388 芦屋市緑町2016年11月01日(*↑ ここはシーサイドタウンの一番西北の端、NO.1152でも載せたもともとの砂浜が唯一残っているところです。芦屋川の河口でもあります ) NO.1387 芦屋市緑町2016年11月01日(*↑ シーサイドタウン東の端の面の岸辺。右側に細長い海が少し残っています。さらに右には神戸市の埋め立て地の倉庫街。先に見える高架の道路が阪神高速湾岸線 ) NO.1386 芦屋市潮見町2016年11月01日 NO.1385 芦屋市緑町2016年11月01日(*↑ 左にある道路は阪急バスのバス道になります ) NO.1384 芦屋市潮見町中央緑道2016年11月01日(*↑ ここはシーサイドタウン中央部の遊歩道(中央緑道)の西の終わりあたりになります。この先にバス道があり少しだけ古くから残ってる海のあるところに出ます ) NO.1383 芦屋市若葉町中央公園2016年11月01日(*↑ 中央公園内で広場から西寄りに遊歩道になったところがあり、ここには小さな池などがありベンチなどが備えられています。ここの木々も昔と比べると大きく立派になりました。道の敷石などは渋みが加わりましたね ) NO.1382 芦屋市若葉町中央公園2016年11月01日(*↑ 中央公園の西側には下水処理場があります。その屋上はかつてテニスコートになっていました。そこに上がるには処理場の東にスロープがあったのですが、南側にも上に行く階段がありました(↓の写真)。で、この日まずそれを探したけれどなぜか解らない。何度も往復して「んん? これか〜?」とようやく気づきました。草木でうっそうとしている中、下のフェンスが閉められて、「閉鎖しました」の文字が。帰ってパソコンからネットで衛星写真を観てみると屋上にはもうテニスコートは無くなっていました ) NO.1381 芦屋市若葉町中央公園芝生広場2016年11月02日(*↑ 野球場の南側に位置する広場です。サッカーやラグビーなどのグラウンドとしても使用されているようですし、夏には夏祭りが行われて屋台が並んだりします。芝生広場という名前でいいと思うのですが、広場の中は土です。もともとどうだったのかは忘れてしまいました ) NO.1380 芦屋市若葉町中央公園芝生広場2016年11月02日 NO.1379 芦屋市若葉町中央公園芝生広場2016年11月02日 NO.1378 芦屋市若葉町中央公園2016年11月02日(*↑ 休憩所の向こうに見えているポールは野球場の照明です ) NO.1377 芦屋市若葉町中央公園「人びと」像2016年11月02日 NO.1376 芦屋市若葉町中央公園2016年11月01日(*↑ この公園が出来た数年は植えたての低い木々でスカスカでしたが、さすがに40年も経つと道を覆うばかりになっています。春になるとここは桜が咲き誇って綺麗な花見どころにもなってます ) NO.1375 芦屋市若葉町中央公園野球場2016年11月02日 NO.1374 芦屋市若葉町中央公園野球場2016年11月02日 NO.1373 芦屋市若葉町中央公園野球場2016年11月02日(*↑ この中に一度だけ入ったことがあります。友人Yのお兄ちゃんがここで草野球の試合をして、近くなので応援にきて中に入れてもらいました ) NO.1372 芦屋市若葉町中央公園野球場2016年11月02日(*↑ この野球場は阪神淡路大震災の折には、自衛隊ヘリコプターの発着場になっていました。それまでただの野球場だったところからヘリが大きな音をたてて飛び立つのを見て、何かの映画を観ているかのような現実感の無い妙な感じがしたものです ) NO.1371 芦屋市若葉町中央公園2016年11月02日(*↑ シーサイドタウンの中央公園のトイレ。ここは公園の北の端でもとの実家からも近く、1981年の家の改装の時によく使用させてもらったトイレです )
■久しぶりに「タテパノラマ」。そして、僕が育った「芦屋の街」編の続きです。だから例によって特別に、ところどころ説明文を入れていきます。再び、実家のあった近くに戻って、今度は埋め立て地「シーサイドタウン」を巡ります。芦屋の海を埋め立てて、僕が高校の時に新しい街として出来ましたが、もうそれから40年くらい経ちました。NO.1370 芦屋市新浜町阪急バス芦屋浜営業所2016年11月02日 NO.1369 芦屋市新浜町阪急バス芦屋浜営業所2016年11月02日(*↑ 芦屋市内の阪急バスの営業所兼車庫になっているところです。バスの中での忘れ物が届いて保管されるところでもあり、僕は何度かここに引き取りに来ました ) NO.1368 芦屋市新浜町阪急バス芦屋浜営業所前停留所2016年11月02日 NO.1367 芦屋市新浜町兵庫県立国際高等学校2016年11月02日(*↑ かつては国際文化科を持つ「県立芦屋南高校」という名の高校でした。偶然だったのだけれど、2015年にロンドンに行った時にお世話になったMsちゃんの母校でもあります ) NO.1366 芦屋市高浜町2016年11月01日 NO.1365 芦屋市高浜町2016年11月02日(*↑ 街が出来た時は最新の未来的な街だったけれど、このタイプの公衆電話ボックスが今でも残っていることが、ここがもう随分と年月の経ってるところだということを教えてくれます ) NO.1364 芦屋市高浜町2016年11月02日 NO.1363 芦屋市高浜町2016年11月02日 NO.1362 芦屋市高浜町2016年11月02日 NO.1361 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日(*↑ ダイエーから出て広場スペースからそのままバス通り側に行き、歩道のスロープに移ったところです。ここからダイエーの建物をみると、うっすらと昔のダイエーマークをはがした跡が残っています。写真ではわかりにくいですが) NO.1360 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日(*↑ ダイエーの中に入ってみると今使用しているフロアは2階までで、3階は閉鎖されていました。かつては、1Fが食料品、2Fが衣料品と靴、3Fは日用品と電気と文具のフロアでした。他にも時期によってレコード店やラーメン屋や喫茶店ゃ書店などもありました。そのあたりの頃を知っているので、とてもサミシイ感じがしました。ただ、景気も悪くなってヨノナカの好みや空気も変わってからというもの、こういう感じはそう珍しい光景でもないですが)NO.1359 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日NO.1358 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日(*↑ ダイエーの入り口の右方向に今はドラックストアの「ライフォート」があります。しかしここはオーブン時から何年もの間住友銀行がありました。親が子供の頃に作ってくれた郵便局の口座以外で、初めて持った預金口座を作ったのがここにあった住友銀行でした。その口座は三井住友銀行と名前を変えましたが今も使っています) NO.1357 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日(*↑ 南北の階段を上るとこのちょっと広いところに出ます。ここがダイエーの入り口です。僕が住んでいた家から10分弱ぐらいのところにあるここは、オープンした頃はホントに楽しい感じが溢れてました。1979年くらいなのでまだ多少の上下はあっても景気のいい、バブル景気へとまっしぐらな時期で結構賑わっていました。また、1995年の阪神淡路大震災の折りには、たしか次の日だったのかなー、随分と早くにオープンしてとても安心したものです。「ダイエーが開くらしい」と聞きつけて朝家族とここに並びました。その時に台の上から店長さんらしき人が、来ていた人たちにかけていた励ましの言葉がかなり嬉しかったのを、よく憶えています)NO.1356 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日(*↑ ダイエーの南側からの登り口です。左の緑の覆いがあるところはエスカレーターで昔はちゃんと動いていました。いつしか使用されなくなりました)
NO.1355 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日(*↑ そうそう、自転車がこうやって置いていて。この感じは昔から変わってません) NO.1354 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日(*↑ 建物の1階。道路からは半地下になっている通路と店舗です。ここに並んだお店はオープン時からは随分と変わりました。賑わいでいた頃のここには、酒屋と大きな書店、それから散髪屋や美容室などが並んでいました。書店はしょっちゅう来てましたし、併設していた文具スペースでよくペンなども買ったりしました。散髪屋さんはある時期馴染みにしてました。今はもう寂しい感じになってます) NO.1353 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日 NO.1352 芦屋市高浜町ダイエー2015年11月11日(*↑ シーサイドタウンのダイエーへ、南側から向かう道です。よく通った道です。建物の上部に見えるダイエーのマークは、昔はオレンジの円が少し欠けた形でした ) NO.1351 芦屋市高浜町宮川2015年11月11日(*↑ NO.1110の宮川から南方向への続きです。もともと海で、埋め立てられて川の続きが出来たってことなんですが、まぁ宮川は宮川ですね。この日は沢山のカモメとハトが羽根を休めていました ) NO.1350 芦屋市高浜町2015年11月11日(*↑「シーサイドタウン」の高層住宅です。一番高い棟でたしか29階くらいじゃなかったかと思います。これが出来た時は「おお、すごいなー」と思ったものです。もう40年経ちます。今では高層住宅はそう珍しくはないですね ) NO.1349 芦屋市高浜町2015年11月11日(*↑海技大学から道路を挟んで南側が「シーサイドタウン」になります。僕が高校生の頃、1970年代後半に完成した埋め立て地の街です。このグラウンドはたしか完成当時からあった芦屋大学のグラウンドですが、この写真から一年後の2016年秋にここへ行った時には、看板は外されクラブハウスも無くなっていました。調べるとさらに浜手の新しい方の埋め立て地に移転したようです ) NO.1348 芦屋市西蔵町海技大学校2015年11月11日(*↑ここは、NO.1109で北側の通用門を載せましたが、こちらが正門になります。その時にも書きましたが、阪神淡路大震災の折に実家に戻ってから家族とともに最初の数日を過ごした避難所がここでした。僕たちが避難していた場所は僕が子供の頃からあった校舎の中の教室でしたが、その後に全体を建て直したらしく、今ではなんだか真っ白でスッとした建物になっています。1945(昭和20)年設立の、船員を教育・養成・訓練する学校です )これまでの「僕に踏まれた風景(タテパノラマ)」はこちら。それから、なんで「僕に踏まれた風景(タテパノラマ)」をやり始めたかの説明は、「No.1〜21」の回のページの写真たちのずっと下の文章に書いてます。そんなこんなです。
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近くの神社にこの時期恒例の、来年の干支の石像が置かれた。これはネズミの年から新しく始まったことで、来年のトリで10体目。終わったその他の干支の石像は、別のところにぐるりと円を描くように置かれている。あと2年、イヌとイノシシの新しい石像が置かれたら、ひとまわり。そうなればそのあとは、前のものを順番にまた毎年正面に飾るようになるのだろうな。☁今年は初夏から、毎朝トマトを食べるということをしていた。皮を湯むきして、細かく切って柑橘ジュースをかけて、後は塩、酢、オイル、コショウをかけて、スプーンで混ぜて食べた。ほぼ毎日。それで体が良くなったとかどうとかは解らないけれど、特に暑い時期は朝からこの冷たくて爽やかなトマトはおいしかった。で、冬になってから、毎日ではなくなってしまった。やはりその食べ方は冷たいし、冬は体が温まって頭が回るまで時間がかかるので、ちょっとおっくうになって。まぁでもたまにやっているし、これからもたまにやろう。☃ところで、ふと思った。「むずかしい」という言葉を省略して、「むずい」という言い方をよく若いコを中心に、もう結構前から使うようになった。最近ではテレビ見てても、フツーに使っていたりする。この「むずい」は、ずっと残っていくのかもしれないねぇ。と、なんとなくそんな気がする。これはきっと誰でも知ってる有名な話なので、引き合いに出してもちっとも自慢にならないけれど、「新しい」を「あたらしい」というのは元々は間違いで、もともと「新(た)」は「あらた」だ。「新たなる挑戦」とか「新井さん」とかの「あら(た)」だ。どうして「あたらしい」という誤読が正しいものになったのかは諸説あるみたいだけれど、「あたらしい」の方が言いやすいんじゃないかなぁ。だとすれば、「むずかしい」よりは「むずい」の方が言いやすい。それに、西洋の人にはきっと「むずかしい」と言うのはきっとむずかしいに違いない。でも「むずい」ならまだむずくないだろう。これからは日本語を話したい外国の人も多くなるだろうし。ちなみに、僕の持っているちょっと古い国語辞典を調べてみると、当然、「むずい」は載っていない。「むずむずする」とか「むずがゆい」とかは載っているけれど。人の代が進んで先になると、もっと「むずい」が定着して、このままいくと、国語辞典に載るかもしれないな。「キモい」などに比べるとそう汚い言葉でもないし。まぁ、それはそれとして、じゃあ、漢字はどうあてるのか。「難い」?それともかなで「むずい」か「ムズい」?♠この間、ネットで、「50才を過ぎてから東大試験に挑戦して合格した主婦」の話を見かけた。かつてその人が受験生だった時、東大を受験して落ちたらしい。そして、自分の息子も東大を受験して落ちた。かつては弟、いとこ、父親までも受験して落ちた。一族がことごとく東大に落ちていることに気づいて、皆の残念に終止符を打とうと受験勉強にチャレンジし、合格したそうた。昔からこういう話しは好きでねぇ。でも、この出来事をこんな風に褒めると、「そりゃ東大受験するくらいだからもともとアタマいいんでしょう」とかナナメなコトを言いたくなる人もいそうだけれども、(そういう人に限って自分のコトは「トシで仕方なくいろいろめんどくさくなってしまうんですわー」とかね)いやいやそういう話ではなくて。つまり、この人は、「今を変えることで それまでの形を変えた」と言えるんじゃない?言い変えると、ほれ、「これからが、これまでを決める」と言えるんじゃない? という話だ。◆30年ほど前のことではあるけれど、僕も「人生で再チャレンジした組」になる。大学を出て会社勤めをして、でもどうしても「違うなー」と思ってそこを辞めて、今の方向へと道を変えた。辞めたあとデザイン専門学校へ入って、そこの先生からバイトを紹介された会社で、そのまま契約社員になってバブル期を働いて、そのあとフリーになって、そこからずっと今に続いてなんとかやっている。時々、ふと、最初に就職した会社でそのまま働いていたらどうだったろう?と思うことがある。◆そもそも、子供の頃から絵を書くのが好きで、また面白いことを考えたりするのが好きで、何かそういう仕事につきたいなぁなんて、未成年の頃は漠然と思っていた。でも、ヨノナカは「サラリーマン大安心」の時代で、なんとなく回りの感じは、「したいこと」だとか言ってないで、小さくてもいいからしたくない仕事でもいいから、会社員になるのがゼッタイ安心、という空気だった。親は小さな会社のサラリーマン家庭で、「したいことがあるならその道へ進ませよう」という感覚は無かった。(まぁ、そういう時代でもあったのかもしれない)また、僕本人も、気楽にやっていて、受験勉強は嫌いで国公立美術系の学校に行く学力もなく、私立の芸術系の学校は授業料が高いという話で無理そうだし、まぁみんなも行くし、どこかの大学に行ってどこかに就職すれば、まぁ人生なんとかなるかもしれないなんて流されて、とりあえず高校〜大学〜会社員の道に進んだ。でも、回りとかヨノナカのせいだけでなく、一番には、自分にも強固な意志と勇気が無かったんだなー。けど、仕方ないキモチでそういう道に従いながらも、常になんかこうモヤモヤとしたものがあって。「ああ、あの時、 高校時代や行った大学などの過去が違っていれば、 もっと違うかったかもなー。 ほんとに何かが変わっていたらよかったのになー」と思ったりするキモチは、正直ちょっとあった。最初の会社を辞めて、自分の好きな道に進路を変えるまでは。◆で、会社を辞めて、自分の「したいこと」に道を変えて、現在までなんとかここまでやってきて、振り返ってみて、過去のことをもう、「高校時代や行った大学などの過去が違っていれば もっと違うかったかもなー。 ほんとに何かが変わっていたらよかったのになー」なんて風には全く思っていない。むしろ、それらのコースがあったから今があるのだし、あれが無ければ今の状態はない。逆算して考えてみる。今こうしてやっていることの多くは、あのバブルの時期に働いていた会社にいたことから繋がっている。パソコンで仕事をしているのも、今やっているイラストの仕事も。それから仕事ではないけれど、今だに色んな音楽を教えてくれてる友人も、たまに声をかけてくれて元気をくれるコたちも、そう、去年のロンドン行きが叶ったのだって、あの会社に行っていなければ無かったことだ。仕事もそうじゃないことも、あそこで色んな人に出会ったからあることが沢山あって、それはほんとにヨカッタことだと思っている。そしてさらに遡って、あの会社に縁があったのは、あのデザインの専門学校に入ったからだし、そこに入ったのは最初の就職先をやめたからだし、そもそもその会社で「なんだかなー」と思ってなければ、そういうことになっていない。とすれば、さらに遡ってもし僕があの高校からあの大学に行ってなければ、この道は無かった。◆「いやーでも、もし美術系の学校に行ってたら、 もっと素晴らしい道があったかもしれないじゃないですかー」と余計なことを言う人もいるかもしれないが、それはちょっと違う。なぜかというと、僕はここまでの「この道」が大好きなんだなー。誰かいちびった人がここを読んだとして、「♪この道わぁ〜いつか来た道〜っ、ってか?」と小バカにしたように歌っとしてもヨユーで許せるくらいに、ここまで充分に楽しかった。それに、作品作りやイラストの仕事をし始めてから、ずっと長く応援してくれている友人のナカトは、あの大学で知り合った友人だ。もし行ってた学校が違えば、今、ウレシイことをしてくれるあの友人も無かったことになる。それはイヤだな。だから、今は、あの高校・大学で良かったんだと思っている。過去を全部「ヨカッタ」と思っている。名のある一流の高校や大学では無かったし、クリエイティブな仕事に表面的にハクがつくような学校も経ていないけれど、それでもヨカッタと思っている。◆で、話はここに戻ります。↓もし、僕が30年前に、最初の会社を辞めずそのまま働いていたらどうだったろうか?その場合はもしかしたら、そっちに進んだ佐野は今でも、「高校時代や行った大学などの過去が違っていれば もっと違うかったかもなー。 ほんとに何かが変わっていたらよかったのになー」とジクジクと心の中で思っているかもしれない。「これまで」を複雑な気持ちで感じているかもしれない。でも、実際の今の僕は、「これまで」の過去のコトをヨカッタと思っている。つまりは、あの30年前の時点で、その時の「これから」を変えたから、実際の今はそんなコトは思わず、「これまで」を好きと思える今の僕がいるということだ。別に自慢しているワケじゃあない。例えば、もし、どこかに、「これからが、これまでを決める」ってことも言えるんじゃないかなぁ?そう思うんだけど、どうかなぁ?と、ちょっと思っている人がいたら、上に書いた自分のことも踏まえて、「うん、僕もゼッタイそう思う!」と言いたい、というそれだけの話だ。◆もちろんそういうコトを言うと、「甘い」なんて言うような人もいるかもしれない。でも、だいたい、相手の思いを別に心から考えているワケでもないのに、簡単にすぐ「甘い」とか言い切りたがるような人に限って、広い視野での本当の厳しい経験をしてない場合も多いもので、それなのに誰かの口マネでそういうコトを言うってのは、その人がかなり「甘いこと言っている」ワケで、だからそれは参考程度に心に留めておいて、真剣には気にしなくてもいいのだ。◆あと、「いや、それは佐野さんが若かったからじゃないですかー」という意見もあるかもしれない。たしかにそういう面もあるだろう。(だから早く道を変えたんだけどね)でも、ある程度の年齢になっていても、今の範囲で今何かを進めて、過去の形を自分の中で変えるられることも、きっとあるんじゃないかと思う。つまり、だから最初に出した、50才で東大に再チャレンジした話しにもどるのだ。そんでもって、僕自身もまだまだ「これから」が、さらに「これまで」を決めるかもしれない、とも言えるだろうと思う。と、そういう話なのだ。
さてさて、最後に、おなじみ個人的伝言。ナカトへ。↓の4誌、出てます。そんなこんなです。That's all for now.✓
※↑クリックでもう少し大きく。
まず、『デラックスクロスワード』誌のイラスト完了。編集部からのお題は、〝 メッセージを託します 未来の手紙を届けてください 〟↓ 編集部からのお題は、〝 断然便利で安心! 会員になると特典いっぱい! 〟↓ 編集部からのお題は、〝 プライバシーを守ろう 鍵はかけたかな? 〟↓編集部からのお題は、〝 芸術もスポーツもイケてる 文武両道でガンバル! 〟↓●続いて、『漢字大満足100問』誌のイラスト完了。編集部からのお題は、〝 他人には見せない! 〟↓
編集部からのお題は、〝 それは理不尽すぎる! 〟↓
編集部からのお題は、〝 何としてでもやり遂げるぞ! 〟↓
編集部からのお題は、〝 誰がふさわしい? 〟↓編集部からのお題は、〝 全員で勝ち抜くぞ! 〟↓(C)Hajime Sano(株)マガジン・マガジンのパズルメイトシリーズの雑誌です。(このブログへの掲載は編集部の許可を得ています)●
突然にガクッともう冬で、寒いなー、なんて思いつつ、「なんか後頭部いたいなー」、なんて日々だ。だいたいこんな感じの気候の時は、冷えのぼせみたいになったりするんよねー。昔から。夏にせよ、冬にせよ、春にせよ、秋にせよ、とにかく最初の一ヶ月半くらいは、なかなかなじめない体の私です。「おいおい、一年の半分かいっ!」ふと思う。今から10年前だと2006年だ。ついこの間な気がする。でも、人々の感じとしては、パッと思ったところは、あんまりそんなに変わっていない気がする。けれど、もっと遡って、例えば1970年と1980年の比較をしてみる。アタマの中で。ファッションだとか、歌だとか、テレビだとか。そうやって、思い起こしてみると、あの頃は10年立てば随分と違っていたような、そんな気がする。でも、一方で、今のこの10年、携帯からスマホの変化や、色んな社会的な状況を思うと、この10年くらいですごく変化した部分もある気もするのだけれど。うーん、どうなのかなー。まぁ、こちらが年齢を重ねてきた、ということもあるかもしれないけれど、変わり方や変わりどころも、時代とともに、変わってきたのかもしれないなー。ん?やっばり変わったのか。そういうところが。年齢を重ねて来たと言えば、最近思いついたことがあって。自動車メーカーはそろそろ、「中身は最新だけれど外のデザインはまんまかつての名車」という車を発売したら、ある程度以上の人にすごく売れると思うのだけれどなー。そう、僕はもう車を運転しなくなって長いので、ほとんど車自体に興味がなくなってきたけれど、それでも、「なんだか今の車はみんな同じに見えるなー、昔の車のデザインはそれぞれカッコよく感じたけれどなー」なんて事を街を歩いていてよく思う。同じように、車を運転している人でも、そう思っている人は多いんじゃないかと思うのだけれど、どうだろう?だから、そういう人たちに向けて、外観デザインは例えば70年代の、「117クーペそのまま」とか、「シルビアそのまま」とか、他にも色々なかつての70年80年代名車のデザインにして、一方、エンジンや安全制御などの中身は最新にして販売したら、「おおっ、買いたい」と思う人は多いと思うのだけれどなー。それから、「フェアレディ」や「スカイライン」は、デザインを買えて今もブランドとして残っているけれど、これらもかつて人気だった往年のデザインを、「クラッシック・フェアレディ」とか、「クラッシック・スカイライン」なんて別ラインナップで売れば、中高年で買いたい人など結構いそうな気がするなぁ。そう、かつて憧れたけれども、「自分自身は子供で当然運転できなかった」とか、「もう大人だったけど当時は手が届かなかった」とか、そういう人は絶対にいるだろう。それから、「若い頃に乗っていたのでまたちょっと乗ってみたい」という様な子育てに一段落ついた世代の人もいるだろう。ポイントは、「ほぼ、まるまんま、あの当時の外観デザインそのまんま」だ。中身と居住性はバリバリ最先端でありながら。よくある、「当時のデザインの流れを少し取り入れた新しいデザイン」ではせっかくの当時の魅力がなくなってしまう。もちろん、「規制の関係であの部分のデザインはもう出来ない」とか、そういうところはまぁ変えないといけないにしても、それ意外はほぼそのまんま。そこが腕のみせどころ。「いやいや空気抵抗が今の車の方が」ということもあるかもしれなけれど、まぁ、この狭く厳しい日本でガンガン走らせる機会もないので、その点は別にいいだろう。現に実際にそういう古い車を現役で乗っている人も、いたりするし。出来るだけなんとか走行安定感だけをより工夫しつつ。そこも腕のみせどころ。デジカメなどの世界では、数年くらい前から、外観は昔のフィルム時代の、「カメラらしいカメラ」のデザインにしつつも、中身は最新、なんてものがあるのだから、車もそういうのがあっていいと思うのだけれどなぁ。そして、そういうのを販売してみたら、意外と若い人にもうけちゃったりしてねー。カワイイーなんて言って。彼らにしてみればきっと、「今までに見たことのないデザイン」だ。で、もし1社がそういうのをして、めちゃくちゃ受けたり売れたりすると、よくありがちに、他の会社もみんなマネをしてね。結果、町中に昔のデザインの車がバンバン走ったりして。半分くらいそんなのになると楽しいかな。さて、そこへ70年代からタイムスリップしてきた青年が、道路を走る車たちを観て言う。「えーっ?!、観たことの無い車が、半分くらいあるーー!!!」ん?この話って、「小咄(こばなし)」だったの?そんなこんなです。That's all for now.✓
まず、『クロスワードエンタメプラス』誌のイラスト完了。(たぶん新しいパズル誌です)編集部からのお題は、〝 正しく解けば 報われる!? 〟↓ 編集部からのお題は、〝 冬の空に 美しく輝く 〟↓ 編集部からのお題は、〝 予測不可能… 意外な結末 〟↓ ●続いて、『クロスワードmini』誌のイラスト完了。編集部からのお題は、〝 やっぱり嬉しい褒め言葉 天にも上る気持ち 〟↓ 編集部からのお題は、〝 世渡り上手になるために 時には計算も必要? 〟↓ 編集部からのお題は、〝 いつまでたっても割り切れない! 奇数にまつわる 〟↓ 編集部からのお題は、〝 解いて納得! アルファベットの意味は? 〟↓ ●そして、『まちがいさがしメイト』誌の、「CHUN-CHUN 間違いさがし」。↓ (C)Hajime Sano(株)マガジン・マガジンのパズルメイトシリーズの雑誌です。(このブログへの掲載は編集部の許可を得ています)●
おなじみの、個人的伝言。ナカトへ。↓出てます。コレ。