近くの神社にこの時期恒例の、
来年の干支の石像が置かれた。
これはネズミの年から新しく始まったことで、
来年のトリで10体目。
終わったその他の干支の石像は、
別のところにぐるりと円を描くように置かれている。
あと2年、
イヌとイノシシの新しい石像が置かれたら、
ひとまわり。
そうなればそのあとは、
前のものを順番にまた毎年正面に飾るようになるのだろうな。
☁
今年は初夏から、
毎朝トマトを食べるということをしていた。
皮を湯むきして、
細かく切って柑橘ジュースをかけて、
後は塩、酢、オイル、コショウをかけて、
スプーンで混ぜて食べた。
ほぼ毎日。
それで体が良くなったとかどうとかは解らないけれど、
特に暑い時期は朝からこの冷たくて爽やかなトマトはおいしかった。
で、冬になってから、
毎日ではなくなってしまった。
やはりその食べ方は冷たいし、
冬は体が温まって頭が回るまで時間がかかるので、
ちょっとおっくうになって。
まぁでもたまにやっているし、
これからもたまにやろう。
☃
ところで、
ふと思った。
「むずかしい」という言葉を省略して、
「むずい」という言い方をよく若いコを中心に、
もう結構前から使うようになった。
最近ではテレビ見てても、
フツーに使っていたりする。
この「むずい」は、
ずっと残っていくのかもしれないねぇ。
と、なんとなくそんな気がする。
これはきっと誰でも知ってる有名な話なので、
引き合いに出してもちっとも自慢にならないけれど、
「新しい」を「あたらしい」というのは元々は間違いで、
もともと「新(た)」は「あらた」だ。
「新たなる挑戦」とか「新井さん」とかの「あら(た)」だ。
どうして「あたらしい」という誤読が正しいものになったのかは諸説あるみたいだけれど、
「あたらしい」の方が言いやすいんじゃないかなぁ。
だとすれば、
「むずかしい」よりは「むずい」の方が言いやすい。
それに、
西洋の人にはきっと「むずかしい」と言うのはきっとむずかしいに違いない。
でも「むずい」ならまだむずくないだろう。
これからは日本語を話したい外国の人も多くなるだろうし。
ちなみに、
僕の持っているちょっと古い国語辞典を調べてみると、
当然、「むずい」は載っていない。
「むずむずする」とか「むずがゆい」とかは載っているけれど。
人の代が進んで先になると、
もっと「むずい」が定着して、
このままいくと、
国語辞典に載るかもしれないな。
「キモい」などに比べるとそう汚い言葉でもないし。
まぁ、
それはそれとして、
じゃあ、漢字はどうあてるのか。
「難い」?
それともかなで「むずい」か「ムズい」?
♠
この間、ネットで、
「50才を過ぎてから東大試験に挑戦して合格した主婦」
の話を見かけた。
かつてその人が受験生だった時、
東大を受験して落ちたらしい。
そして、自分の息子も東大を受験して落ちた。
かつては弟、いとこ、父親までも受験して落ちた。
一族がことごとく東大に落ちていることに気づいて、
皆の残念に終止符を打とうと受験勉強にチャレンジし、
合格したそうた。
昔からこういう話しは好きでねぇ。
でも、
この出来事をこんな風に褒めると、
「そりゃ東大受験するくらいだからもともとアタマいいんでしょう」
とかナナメなコトを言いたくなる人もいそうだけれども、
(そういう人に限って自分のコトは「トシで仕方なくいろいろめんどくさくなってしまうんですわー」とかね)
いやいやそういう話ではなくて。
つまり、
この人は、
「今を変えることで それまでの形を変えた」
と言えるんじゃない?
言い変えると、ほれ、
「これからが、これまでを決める」
と言えるんじゃない?
という話だ。
◆
30年ほど前のことではあるけれど、
僕も「人生で再チャレンジした組」になる。
大学を出て会社勤めをして、
でもどうしても「違うなー」と思ってそこを辞めて、
今の方向へと道を変えた。
辞めたあとデザイン専門学校へ入って、
そこの先生からバイトを紹介された会社で、
そのまま契約社員になってバブル期を働いて、
そのあとフリーになって、
そこからずっと今に続いてなんとかやっている。
時々、ふと、
最初に就職した会社でそのまま働いていたらどうだったろう?と思うことがある。
◆
そもそも、
子供の頃から絵を書くのが好きで、
また面白いことを考えたりするのが好きで、
何かそういう仕事につきたいなぁなんて、
未成年の頃は漠然と思っていた。
でも、
ヨノナカは「サラリーマン大安心」の時代で、
なんとなく回りの感じは、
「したいこと」だとか言ってないで、
小さくてもいいからしたくない仕事でもいいから、
会社員になるのがゼッタイ安心、
という空気だった。
親は小さな会社のサラリーマン家庭で、
「したいことがあるならその道へ進ませよう」
という感覚は無かった。
(まぁ、そういう時代でもあったのかもしれない)
また、僕本人も、気楽にやっていて、
受験勉強は嫌いで国公立美術系の学校に行く学力もなく、
私立の芸術系の学校は授業料が高いという話で無理そうだし、
まぁみんなも行くし、
どこかの大学に行ってどこかに就職すれば、
まぁ人生なんとかなるかもしれないなんて流されて、
とりあえず高校〜大学〜会社員の道に進んだ。
でも、
回りとかヨノナカのせいだけでなく、
一番には、
自分にも強固な意志と勇気が無かったんだなー。
けど、
仕方ないキモチでそういう道に従いながらも、
常になんかこうモヤモヤとしたものがあって。
「ああ、あの時、
高校時代や行った大学などの過去が違っていれば、
もっと違うかったかもなー。
ほんとに何かが変わっていたらよかったのになー」
と思ったりするキモチは、
正直ちょっとあった。
最初の会社を辞めて、
自分の好きな道に進路を変えるまでは。
◆
で、会社を辞めて、
自分の「したいこと」に道を変えて、
現在までなんとかここまでやってきて、
振り返ってみて、
過去のことをもう、
「高校時代や行った大学などの過去が違っていれば
もっと違うかったかもなー。
ほんとに何かが変わっていたらよかったのになー」
なんて風には全く思っていない。
むしろ、
それらのコースがあったから今があるのだし、
あれが無ければ今の状態はない。
逆算して考えてみる。
今こうしてやっていることの多くは、
あのバブルの時期に働いていた会社にいたことから繋がっている。
パソコンで仕事をしているのも、
今やっているイラストの仕事も。
それから仕事ではないけれど、
今だに色んな音楽を教えてくれてる友人も、
たまに声をかけてくれて元気をくれるコたちも、
そう、去年のロンドン行きが叶ったのだって、
あの会社に行っていなければ無かったことだ。
仕事もそうじゃないことも、
あそこで色んな人に出会ったからあることが沢山あって、
それはほんとにヨカッタことだと思っている。
そしてさらに遡って、
あの会社に縁があったのは、
あのデザインの専門学校に入ったからだし、
そこに入ったのは最初の就職先をやめたからだし、
そもそもその会社で「なんだかなー」と思ってなければ、
そういうことになっていない。
とすれば、
さらに遡って
もし僕があの高校からあの大学に行ってなければ、
この道は無かった。
◆
「いやーでも、もし美術系の学校に行ってたら、
もっと素晴らしい道があったかもしれないじゃないですかー」
と余計なことを言う人もいるかもしれないが、
それはちょっと違う。
なぜかというと、
僕はここまでの「この道」が大好きなんだなー。
誰かいちびった人がここを読んだとして、
「♪この道わぁ〜いつか来た道〜っ、ってか?」
と小バカにしたように歌っとしてもヨユーで許せるくらいに、
ここまで充分に楽しかった。
それに、
作品作りやイラストの仕事をし始めてから、
ずっと長く応援してくれている友人のナカトは、
あの大学で知り合った友人だ。
もし行ってた学校が違えば、今、
ウレシイことをしてくれるあの友人も無かったことになる。
それはイヤだな。
だから、
今は、
あの高校・大学で良かったんだと思っている。
過去を全部「ヨカッタ」と思っている。
名のある一流の高校や大学では無かったし、
クリエイティブな仕事に表面的にハクがつくような学校も経ていないけれど、
それでもヨカッタと思っている。
◆
で、
話はここに戻ります。
↓
もし、
僕が30年前に、
最初の会社を辞めずそのまま働いていたらどうだったろうか?
その場合はもしかしたら、
そっちに進んだ佐野は今でも、
「高校時代や行った大学などの過去が違っていれば
もっと違うかったかもなー。
ほんとに何かが変わっていたらよかったのになー」
とジクジクと心の中で思っているかもしれない。
「これまで」を複雑な気持ちで感じているかもしれない。
でも、
実際の今の僕は、
「これまで」の過去のコトをヨカッタと思っている。
つまりは、
あの30年前の時点で、
その時の「これから」を変えたから、
実際の今はそんなコトは思わず、
「これまで」を好きと思える今の僕がいるということだ。
別に自慢しているワケじゃあない。
例えば、
もし、
どこかに、
「これからが、これまでを決める」
ってことも言えるんじゃないかなぁ?
そう思うんだけど、どうかなぁ?
と、
ちょっと思っている人がいたら、
上に書いた自分のことも踏まえて、
「うん、僕もゼッタイそう思う!」
と言いたい、
というそれだけの話だ。
◆
もちろんそういうコトを言うと、
「甘い」
なんて言うような人もいるかもしれない。
でも、
だいたい、
相手の思いを別に心から考えているワケでもないのに、
簡単にすぐ「甘い」とか言い切りたがるような人に限って、
広い視野での本当の厳しい経験をしてない場合も多いもので、
それなのに誰かの口マネでそういうコトを言うってのは、
その人がかなり「甘いこと言っている」ワケで、
だからそれは参考程度に心に留めておいて、
真剣には気にしなくてもいいのだ。
◆
あと、
「いや、それは佐野さんが若かったからじゃないですかー」
という意見もあるかもしれない。
たしかにそういう面もあるだろう。
(だから早く道を変えたんだけどね)
でも、
ある程度の年齢になっていても、
今の範囲で今何かを進めて、
過去の形を自分の中で変えるられることも、
きっとあるんじゃないかと思う。
つまり、
だから最初に出した、
50才で東大に再チャレンジした話しにもどるのだ。
そんでもって、
僕自身もまだまだ「これから」が、
さらに「これまで」を決めるかもしれない、
とも言えるだろうと思う。
と、そういう話なのだ。
さてさて、
最後に、
おなじみ個人的伝言。
ナカトへ。
↓の4誌、出てます。
そんなこんなです。
That's all for now.
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