■続けて、
僕が育った「芦屋」の街の「タテパノラマ」です。
だから特別に、
ところどころ説明文を入れていきます。
いよいよ当時の家のあったところ(育ったところ)に、
近づいてきました。
NO.1109 芦屋市西蔵町海技大学校
2015年5月1日
(*↑船員を教育・養成・訓練する学校「海技大学校」の学生寮入り口です。うっかり写し忘れましたが、海技大学自体の正門はこの道の先を曲がってちょっと行ったところにあります。1995年の阪神淡路大震災の時、今も住んでいる神戸のマンションにいた僕は、余震が収まってから歩いてこの近くの実家まで帰りました。そして、そのあとすぐ、避難所となったこの海技大学に家族全員で避難をしました。近所の人たちが多く居ました。結局僕らは一週間くらい居たのではなかったでしょうか。ここで震災後に最初に食べた炊き出しの豚汁は、たぶん「一生の中で一番おいしく思った豚汁」になると思います)
NO.1108 芦屋市西蔵町
2015年5月1日
NO.1107 芦屋市西蔵町
2015年9月11日
(*↑この「旅館(下宿) 芦屋はまゆう」は昔からあると思います。見たところ、普通の家です。いったい、どんな旅館でどんな下宿なのでしょう? 「…と、思ったのも昔の話、今じゃネットで何でもわかるねんでぇ」と思って調べてみたけれど、やっぱりよく解りませんでした。相変わらず謎の「芦屋はまゆう」です )
NO.1106 芦屋市西蔵町
2015年5月1日
(*↑この正面の家は、僕が越してきた時はパン屋さんでした。それがすぐに警察犬の訓練所になりました。小さくて見えないですが、シャッターの上に「芦屋警察犬訓練所」と書いています。たまに僕と変わらないくらいの大きさの黒いシェパードを連れたおじさんがここの前にいたりして、「わーっ、ひーっ」と思ったりした子供の頃の僕でした )
NO.1105 芦屋市西蔵町
2015年9月11日
(*↑ここも昔からある文化住宅です。いや、今はなんだか見た目がキレイになって、いわゆる「リノベーション」な感じになっていますが、やはり構造は昭和の「文化住宅」です。にしても、残っているのがちょっとウレシかったです。昔は、良く言うと「味のある家」が結構芦屋の浜手方面にはありました。でも、今は、立地と環境とネームバリューのせいか、新しいシャレた家やマンションが増えました。けれど、例えば、久しぶり来た人にとって、多少外見は変わっていても昔のものがそこにそのままあるということは、心の中に少し「幸せでウレシイ感じ」を生み出してくれます。いや、ずっと住んでいる人にだってきっとそうでしょう。 もう、「新しいが絶対」ばかりじゃなく、そういうことを大事にした方がいい時代になったと思います。ロンドンの残されている街並みを見て、一層そう確信しました)
NO.1104 芦屋市西蔵町
2015年9月11日
(*↑ 友人Yとの5月1日には回りきれなくて、しかしどうしても改めて行って確認して、写しておきたかったのがこの西蔵町あたりです。特にここ。向こうに見える家々は新しくなっていましたが、道自体の感じと、右のトタン板の屋根の駐車場が45年以上前から全くそのままで、ちょっと驚きました。今でもそうなのですが僕は子供の頃から、小さな路地を選んで歩くのが好きでした。一人で通学できるようになった頃から幾つもの通学コースを持つようになり、その時の気分で好きな道から通っていました。みんなが普通に行く大きな道よりも、小さくても自分にしっくりとくる道を行くのが好きでした。まぁ、それはその後の人生を暗示させている様なコトでもあるのですが、とにかくその幾つかの脇道コースの中で、この道を通っていくのが一番好きでした。「そうかー、ここの道がそのまままだあって、しかも駐車場の感じも一緒かー」と、とてもウレシイキモチになりました。心の中で小さな僕が向こうへ走っていきます。「遅刻するーっ」)
NO.1103 芦屋市西蔵町
2015年9月11日
(*↑ここからNO.1104の場所へと抜けることが出来ます。この奥のところで友達と自転車で二人乗りしているのを、おまわりさんに見つかって叱られたことがあります。けれど、家並みの感じははもう当時とはかなり変わっています。村上春樹さんが中学生から高校卒業まで暮らしたご実家があったのは、たぶんこの辺りだと思います )
NO.1102 芦屋市西蔵町
2015年9月11日
(*↑ここを進んで行くと、僕の通った「宮川幼稚園」及び「宮川小学校」に行きます。でも、本当に感じが変わってしまいました。それに思えばやはり当時は木造の家も多くて、それだけで随分と感じが異なるものです )
NO.1101 芦屋市浜町芦屋市立宮川幼稚園
2015年9月11日
(*↑僕が通った宮川幼稚園です。宮川小学校のすぐ南側に隣接しています。もうちょっとグラウンドの見えるところを写したかったのだけど、丁度園児が遊んでいて先生も沢山おられたので、遠慮して門のプレートだけ。45年の歳月で木造だった園舎の姿は変わっています)
NO.1100 芦屋市浜町芦屋市立宮川小学校
2015年9月11日
(*↑母校「宮川小学校」のグラウンドです。誰もよく言う話ですが、あんなに大きいと思っていた小学校の運動場も、大人になってから見ると「え、もっと大きくなかったっけ?」と思ってしまいます。が、ちょっと頭のスイッチを替えてスレた大人の目で「物件的」に見ると、それでもかなり「大きな物件」です。たくさん建ちそうです。「不動産業」に就かなくてほんとにヨカッタと思います )
NO.1099 芦屋市浜町芦屋市立宮川小学校
2015年9月11日
(*↑NO.1070で「宮小」の東側の校門を写しましたが、こちらは逆方向にある西の校門です。僕は基本的にはこちらを使っていました。昔に比べるとなんだかシャレた門柱です。ここの門の前を出た正面に、よくおもちゃ売りのおじさんが座っていました。軸が透明になっていてその中に人形が入っていて、軸の一部をギュッと握ると中の人形が上下に動いたりする、不思議なペンを売っていたりしました。まぁ、それはいわゆる科学おもちゃなんですが、なんだか怪しげに売るのです。その当時は不思議で不思議で、じーっと見ていました。で、おじさんを見ると、ニコニコしているけれどなんだかちょっと目が怖そうなのでした)
NO.1098 芦屋市西蔵町
2015年9月11日
(*↑「宮小」の西の校門から西へしばらく歩いたところの路地にある店で、「半営業」みたいな感じではありましたが、残っていました。自転車でどこかに遊びに行く途中、ちょっと寄ってお菓子やジュースを買ったりしたところです)
NO.1097 芦屋市西蔵町
2015年9月11日
(*↑宮川の横にはいくつかお地蔵さんがあります。かつてここで何度か子供の水難があったのかもしれません。8月後半になるとこれらのお地蔵さんの前で「地蔵盆」が行われ、小さな頃に母に連れられて来たことがあります。浴衣を着ていきました。お菓子がもらえるのでウレシかったのですが、それはまぁちゃんと大人がお供えをしていたからです。でも、子供はそんなこと知らないのでとにかく「行けばお菓子がもらえる」このお祭りが大好きでした )
NO.1096 芦屋市西蔵町
2015年9月11日
(*↑NO.1097の少し南にあるお地蔵さんです。このさらに南に行ったところにもう1つお地蔵さんがあるのですがうっかり写し忘れました。きっとそれだと思うのですが、NO.1086の打出商店街の喫茶レマンの所でも出てきた中学の時の友人の「マジャン」は、随分小さな頃にイタズラ心で中のお地蔵さんを取り出して川に投げ入れたらしいです。勉強が出来るくせにちょっと悪こいところがあった彼でしたが、その後無事でしょうか? )
NO.1095芦屋市西蔵町から西蔵橋
2015年9月11日
(*↑通学で必ず渡るこの宮川には橋が幾つかあり、その時の気分でどれかを渡っていました。これはその内の1つの「西蔵橋」です。南を向いています )
NO.1094 芦屋市宮川(西蔵町・呉川町)
2015年9月11日
(*↑「西蔵橋」の真ん中、川の真上から南を向いています。向こうにシーサイドタウンの高層住宅が見えます )
NO.1093 芦屋市呉川町から西蔵橋
2015年9月11日
(*↑「西蔵橋」から北を向いています。阪神高速道路の高架が見えます )
NO.1092 芦屋市呉川町から宮川
2015年9月11日
(*↑足下が呉川町。対岸が西蔵町です )
NO.1091 芦屋市呉川町
2015年9月11日
(*↑ここも「おお、まだやってるんやー」なお店です。当時はここのように「パン屋でタバコ屋でお菓子と雑誌も置いているお店」が結構ありました。ここは家からは微妙に遠かったので普段は全く利用しないお店でした。家の近くにもこういったお店が他にありましたし。ただ、中学くらいになって、「よく知っているところで買うにはちょっと恥ずかしい雑誌」などを買うために、何度かここまで来たことがあります。向こうが「国道43号線」、その上の高架が「阪神高速道路」です )
これまでの「僕に踏まれた風景(タテパノラマ)」はこちら。
それから、
なんで「僕に踏まれた風景(タテパノラマ)」をやり始めたかの説明は、
「No.1〜21」の回のページの写真たちのずっと下の文章に書いてます。
そんなこんなです。