「スーパークロスワード」誌のイラストが完了。
編集部からのお題は、
「勝負は最後までわからない! まさかの大逆転」
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編集部からのお題は、
「眉唾もの だまされちゃダメ!」
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(このブログへの掲載は編集部の許可を得ています)
今年の夏は、
どんよりしていたり、雨が降ったり。
甲子園の高校野球もちょっと大変そうだ。
運営側も選手も応援団も。
まぁ、でも、そもそも、
いろんな夏があるんだな。
その夏によって。
その中でどう自分らしくその夏を過ごすのか、
それは子供や受験生から、若・中・高な大人まで、
みんなに配られたカード。
子供の頃、
1960年代から70年代まで、
僕の住んでいた芦屋の浜の手には、
ちょうど高度成長期の「会社社会」の中で建てられた、
「社宅」や「独身寮」がアチコチにあった。
今、思い出せる社宅や独身寮だけでも、
川崎製鉄、国鉄(現JR)、第一勧業銀行、神戸銀行、
神鋼ファウドラー、仁丹、東京海上火災。
他にも僕の記憶にない会社の社宅も沢山あったと思う。
そして、そういった会社の福利厚生として、
「グラウンド」や「テニスコート」や「プール」が、
社員と家族が使える施設として、何カ所かにあった。
戦後から続いた景気の良かった時代ならではのことだ。
僕の家から西へ歩いて15分くらい(子供の足で)のところに、
神戸銀行所有のグラウンドとプールがあった。
グラウンドは芝生も植えたかなり本格的な野球場で、
秋に社員の運動会が行われているのを見かけたこともあった。
プールも子供用と大人用のプールを持ち、
売店と休憩所も備えたちゃんとしたものだった。
どうして、神戸銀行のプールに詳しいかというと、
子供の頃、何度かそこに泳ぎにいったことがあるのだ。
僕が暮らした家のあった一角は、
もともとはそこそこの広さの敷地だったところに、
小さな建売住宅を「ギューーッと建てられるだけ建ててみましたー」、
というような分譲住宅地だった。
そんな同じような家たちの中の、
我が家から2件南隣りに、
Wミヤさんという家族が暮らしていた。
その家のタッちゃんとは同い年でたまに遊んだりもしていたが、
そこのお父さんが神戸銀行の社員だったのだ。
その神戸銀行のプールは、
社員に配られているチケットがあると、
家族で無くても入ることができたのだけれど、
それをある期間の毎年の夏に、Wミヤさんがくれたのだ。
が、
今でも僕の母は苦い顔をして言うのだけれど、
「毎年たいてい、8月のほとんど終わりになってからくれるねん。
自分らがもう行かへんと解っていて余っているからやろけど、
それにしても、あと明日一日って、何やねんっ、
って思ったこともあったなー」
だったらしい。
そりゃ、
もらっておいて言うのも何だけれど、
そういう思惑があからさまな感じは、
やっぱり評判悪くするよなー。
だいたい、
いつも自分たちの合理主義中心で少し冷たい感じのするその家は、
そもそも母の好みではなかったようだ。
それも含めて、また、それに加えて、
例えばチケットをくれる時の言い方などが、
母にはちょっと引っかかるものがあったのかもしれないなぁ、
と、今となっては想像できる。
が、しかし、
子供の僕らにはそんなことは関係ない。
宿題がたくさん残っていようとも、
「プール行く?」と母親に言われれば、
「いくいくいくいくいくくいくいくいくいくいくくいくー」
と、嬉しくてふわふわな気分になってそこらを飛び回り、
水着の上からズボンをはいて、浮き輪はすでに家でふくらまし、
「プールに着いたらパックのフルーツジュースを買って、
そんでそんでそんでそんでえひゃひゃひゃ」なんてわくわく顔で、
跳ねながら神戸銀行のプールに行ったものだった。
まぁ、それを見て、
母親も「子供たちが喜んでいるならば、まーいいかー」と、
思ったのだろうな。
近所づきあいでもあるし。
その神戸銀行はのちに合併して太陽神戸銀行になり、
その後にまた合併して太陽神戸三井銀行となってから、
数年後に改名してさくら銀行になり、
さらに住友銀行と一緒になって、
現在の三井住友銀行だ。
そして現在、
そこそこな施設なんてものはもう社員にも人気がないのだろう。
半分遊ばせながら維持管理するという余裕もどこも無いのだろう。
あの時代に、
芦屋の浜手にたくさんあった当時の社宅や寮や福利厚生施設も、
今ではほとんどが、マンションに変わってしまっている。
そんなこんなです。