ヘリウムやネオンやアルゴンは、
「希ガス」です。
「化学基礎」で学びました。
「そんなん今ごろして何の意味があるんですかねー」と、
背中を丸めながら上目遣いに言う人もいるかもしれないけれど、
そういう人には、
今日は、もっと意味がなさそうな昔の話。
書き方が物語り的になるので、
上のような人には、
「ホンマですかねぇー」といいたくなるような例の語り口で。
もう30年以上前、
まだ、パソコンもスマートフォンも無かった頃。
僕は大学生で、夏休みで、その日は家にいて、
無くなったタバコを買うために家の外に出た。
家を出て正面には、
川崎製鉄の所有しているテニスコートがあった。
もともとそこには大きなお屋敷があって、
敷地内の外側に面したところには大きな松の木が並んでいた。
たぶんそれは、
さらに古い時代に海岸の近くが一面の松林だった頃の、
その流れをくむ松の木だったんじゃないかと思う。
立派でスラッと背の高い松の木たちは、
川崎製鉄のテニスコートになってからもそのまま並んでいて、
家を出ると必ず正面に見える松のある風景は、
「とても当たり前で、だけど安心感を与えてくれる」といった、
僕にとっては「家庭」とワンセットになったような景色だった。
その松の並ぶテニスコートと僕の家の間には、
脇に小さなドブ川を備えた小ぶりの道路が南北に走っていて、
旧堤防のところで行き止まりになっているおかげで、
車の量もそう多くは無いのんびりとした道だった。
その日、
僕はその道路を北へ向い、
バス道にある「大川さん」という酒屋の脇にある、
タバコの自動販売機を目指して歩いた。
その頃はまだ高いマンションなど無かった頃で、
スカッと抜けるような感じの芦屋の浜手の独特の空気感の中を、
夏の強い日差しがアスファルトを白く照らしていた。
右手の公園を越えて宮本産婦人科の前あたりまで来た時、
バス通りを曲ってこちらに走ってきた緑のスーパーカブの運転手が、
「おーっ!佐野ーっ!」と声を出した。
当時は原動機付き自転車はヘルメット着用義務は無かったので、
カブの運転手の顔が「ヨシナガ」であることがすぐに解った。
ヨシナガは小学校と中学校が一緒で、
併せて2回ほど同じクラスになったことのある、
そしてその当時もごくたまに一緒に遊んだりしていたヤツだ。
僕はたぶん、
「おーっ、何してんのー?」とでも言ったんだと思う。
聴くと「寿司屋で配達のバイトしてんねーん」と。
それからたしか、
ヨシナガはバイクを降りて、
僕はヨシナガにタバコをもらって、
2人して並んで宮本産婦人科の脇に座って数分間話をした、
とか、そんなんじゃ無かったか、と思う。
とにかく、
夏らしい強い日差しを受けて、
道路や宮本産婦人科の壁など周辺が真っ白になったような、
その時の周辺の印象ははっきりと記憶に残っている。
その時なのか、
しばらくしてからヨシナガから電話があったのか、
それはもう忘れてしまったけれど、
ヨシナガが、
「佐野ーっ、俺のあと、寿司屋の配達のバイトせえへんかー?」
と言い、
僕は、迷うことなく、
「するーっ」と言った。
というのも、
僕はその年の春頃に原付免許を取っていて、
しかし、自分のバイクは持っていなかったので、
バイクを乗り回したくって仕方が無かったのだ。
ヨシナガが途中で僕にバトンタッチした詳しい理由は覚えていない。
彼は当時、岐阜の短期の専門の学校に行っていて、
翌年は卒業だったからその関係があったのかもしれないし、
もしかしたら、
僕が「一年の内の出来事」だと覚え違いをしているだけで、
カブに乗ったヨシナガに会った夏は、
その一年前の事だったのかもしれない。
今となってはあやふやだ。
しかし、とにかく、
1981年の夏、
そういう成り行きで、
もともとヨシナガが乗り回していた、
"たこはち" (多幸八=寿司屋の屋号)のスーパーカブを、
ひきついで僕がブイブイと乗り倒したのだった。
「そのヨシナガも、今ではどこでどうしているのかは知らない…」
と、安っぽいお話のようには終わらない。
ヨシナガとはあれからも、
そして今でもつきあいがあって、
彼は変わらず元気でスカッと気持ちのいいヤツだ。
ちょっと前に、
一緒に飲みにいった時に、
「昔、夏にヨシナガが "たこはち" のバイクで配達の途中、
ウチの近くでバッタリと会ったの覚えてる?」
と聴いてみた。
返事は、
「いやー、憶えてへんわー! オマエ、よぉ憶えとるなー」
だった。
でも、
「ほんま、"たこはち" のバイトはよかったなー。
お盆とか正月前の数日以外はそんなに忙しなかったし、
外に出たらバイクで飛ばせたしなー」
と、ヨシナガ。
この記憶に関しては、
一致した。
そんなこんなです。