近くの「屋根に原っぱのあるお家」に、
今年もコスモスが咲いている。
「なごむアトリエ」の中の、
「半径10km以内」のコーナーの2000年分には載せているので、
少なくとも8年以上は毎年咲いていて、
ちょっとここを離れていた年以外の、
7年はこれを眺めていることになる。
下から眺めると、
空の青とコスモスのピンクと葉の緑が、
いい配色になっていてキレイ、
だよね。
僕はサブマシンのノートのMacに音楽を入れて、
「ジュークボックス」状態にして、
仕事中などにかけていたりする。
以前は、手持ちの多くのCDから、
気に入っている曲だけを選んで、
そのMacのiTuneに入れてかけていた。
そうやって入れたお気に入りの曲だけが、
順不同のシャッフルでかけて聴いているのが、
今までは楽しかった。
けど、最近、
なんだかそれではつまらなくなってきた。
意外性がないのだ。
ので、
手持ちのCDを順番に、
その一枚まるごとの曲をごそっと、
Macに入れ直している。
結構な枚数のCDがあるので、
先週のアタマからちょっとずつやり始めても、
まだ半分には行っていない。
けど、MacをネットにつないでおけばiTuneでは、
CDを入れるだけで曲目は自動的に、
データベースから勝手に取得して表示してくれるので、
それらを手打ちすることを思えばラクだ。
ちなみに写真は、
Leyonaのアルバムを入れて整理し終わったところ。
この人は曲も声もほんとに好きだ。
さて、
そんな風に、
整理をしつつ1枚のCDの全曲をごそっといれつつ、
以前「この曲はイマイチ」と勝手に決めてチョイスしなかった曲も、
ちょっと聴いたりしてみると、
「お、これって意外といいやん」
なんて思えるものがあったりもする。
そういうのが新鮮だったりする。
そうだろう。
好みや意識もその時ごとに変わるから、
その時点でチョイスしなかったものが、
あとで「いい」と思えることもあるんだなぁ。
それから、
パソコンに曲を入れて聴くようになってからというもの、
以前のように「アルバム」として意識して、
聴くことはなくなっていたのだけれど、
こやってアルパム単位でごそっと入れて聴くと、
「あっ、アルパム単位で聴くのもいいなぁ」と、
再認識もしている。
そんなことを考えていると、
ふと思った。
「これは人間とか生き方とか、そういうのにもあてはまるなぁ」と。
自分の回りを、
「自分の好み」だけでかためてしまうこと、
「自分の居心地いい」だけで後は排除してしまうこと。
これはどうだろうか?
まぁ、誰しもそういうことを理想には思うけれど、
完全にそれだけに向かってしまうと、
成長や発見は無いのではないだろうか?
「居心地悪い」と思っていたことが、
時間がたってから何かのカテになることもあったりするのではないだろか?
それから、「アルバム単位」。
「何か」を構成している全てのことが、
その「何か」の存在を作っているのだから、
その中の「これはいいけど、これはいらない」とやっちゃうの、
これはどうなんだろうか?
その「何か」は全部ひっくるめてその「何か」なんじゃないだろうか?
そして、
そんなことをしていると、
結局自分も、
「全部ひっくるめての自分」を解ってもらえないところに、
行っちゃうのじゃないだろうか?
そんなことを思った。
うーん、
なんだか僕は「禅僧」になっていきそうだ。
ところで、
こうやってしばらく手に取っていなかったCDを、
順番に一枚一枚手にとって整理していると、
予定外のコトが生じてきた。
「ジョージ・ハリスンの"All Things Must Pass"を買うつもりにしてたの忘れてた」
というのを思い出して、外に出たついでに買ってきてしまった。
「あ、そうか、僕はLedZepelinの1枚目と3枚目のCDもってないんや」
とか気付いて、この間ネットで注文して買ってしまった。
「斉藤和義のアルバムがもうちょっと聴きたいなぁ」とか
「そういえば、LeyonaのCDは最近の2枚は買っていないぞ」とか思って、
今日は2人のCDを合計4枚注文してしまった。
イカン。
この調子でいくとこの整理が終わるまでに、
何枚CDを買ってしまうやら。
最近は、
「出費は抑える。モノは増やさない」という目標を立てているのに。
やはり、
「禅僧」になはなれそうにない。
けど、
いいか。
音楽は何かの糧でもある。
そんなこんなです。