10月3日に終わっていた、
『まちがいさがしメイト』誌の、
問題自体も自分で考える、
〝なごむ亭元楽〟名義の探し絵パズルが完了。
「ペンギンパズル」。
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今回はこれは別に何もないかな。
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それから、
同じく『まちがいさがしメイト』誌の、
問題自体も自分で考える、
間違いさがしの問題。
(本当は「正」「誤」の二つあるのだけど「正」の方だけ)
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羽がとれたチュン。
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以上、2つの問題は、
『まちがいさがしメイト』誌2021年1月号に掲載。
ただいま発売中。
全国の書店にて。
(C)Hajime Sano
(株)マガジン・マガジンのパズルメイトシリーズの雑誌です。
(このブログへの掲載は編集部の許可を得ています)
◆◆◆
「思わず“お茶をにごす”という言葉の語源を調べたよ、その4」
さて、
この話の「その1」で書いた手紙が置いてあった前後のころ、
ちょうど11月の初めくらいから、
朝、母のところに行くと、
入れたお茶がおいてあるようになった。
姉が入れたものだ。
ずいぶん前に母が母心で買ってくれた、
「僕が来た時に飲む用の湯飲み」に入れて、
置いてある。
僕に対して「どうぞ」というものだ。
母の所に行き出してから今までそんなことはなかった。
いきなり始まった。
一番最初にそれが置かれていた日、
母は妙な顔をして、
「これ」と言って、
「ハジメに飲んでもらってって言ってた」と言った。
それ以上は言わなかった。
僕は苦笑いをして、
心の中で、姉に対して、
なんじゃそれ、
と、
思った。
●
もともと、
姉はそんなことはしない。
姉らしくない。
自分のことしか考えてない勝手な姉は、
昔から普段の生活で、
自然にすすんで家族に自分から、
優しくお茶をいれるなんてことはしない。
僕や母は、
ただただ意味もなく、
お茶をいれて一緒に飲んで、
一緒の時間を過ごすのは好きだけれど、
そういうのはどうでもいいようだ。
今までの態度からみてわかる。
家族の楽しい団欒としても、
人とのコミニュケーションとしても、
相手に対して気をきかせてみたいなことでも、
しない。
昔からずーっとそうだ。
自分が紅茶を飲む時も、
人から見えるところであっても、
何も言わず自分の分だけ入れてひとりで飲んでいる。
今も基本時にはそうだ。
もし人に入れることがあるとすれば、
いわば「サービス」みたいな感じでいれる。
人に何かをしてもらいたいときや、
してもらう時や、
してもらったあと、
それで相手にご機嫌をとる時などは、
妙にサービスがよくなる。
他のいろんなことでも。
そういう時に、
お茶を入れたりはする。
それはある。
あとはなぜかわからないけど、
ごくごくまれに、
気まぐれで「私は今日はすごくいい子」な気分になって、
入れたりすることもごくごくごくごくごくごくまれにある。
突然わきあがった気まぐれ気分次第、
てな感じだろう。
●
だいたい、
食事やお茶などを、
「家族や人と共有するのが楽しい」とか、
もともとそういう気持ちは無い人だ。
姉は。
よく知っている。
親しいはずの人たちと、
場と時間をゆったりと共有するのが楽しいとかは、
基本的に姉の気持ちの中にはもともとないものだ。
(若い頃から自分でも「冷めている」「感動しない」「ああいうの見ても何も思わへんねん」と言っているからそうなのだ)
家でのご飯の時も、
食べている他のみんなの近くにいなかったりする。
時間をずらして食べたりする。
もしくは、
向こうの流しのところでひとりで立って(立ち食い!)、
そこからはテーブルの反対側のテレビを見ながら食べていたりする。
そんな時の姉の目はほんとに冷たい目をしている。
そして時々、詳しく見るためにテレビの前まで走って行って、
子供のようにじーーーっとしばらく見ている。
以前母が入れたお茶でも気が向いたら飲む。
でも時にあっさりと「いらない」と無駄にする。
でも気分によれば、
入れていないと怒る時もある。
「みんなで一緒に仲良く」
というのは昔から母の願いでもあるが、
そうやって、
いともたやすくそれを無視する。
ここ20年ぐらいは特にひどい。
そのくせに、
逆に僕を下げようとして母に、
「ハジメは自分ひとりで勝手にいいことしてる」
とか言って、
母のそういう「願い」の部分に訴えて僕を悪くして、
母にそう印象づける。
そうやって僕を下げて自分の立場を上げようとする。
でも、
そもそも、
そういうことをネタにして言う姉こそが、
「自分ひとりで勝手にいいことをしたい」だったりする。
そして時として、
人が美味しいものを食べているのはハラがたつ。
そういう気分の時は「私は食べて無い」とものすごく怒る。
「私も食べたい」「私も行きたい」である。
でも、
興味がないものには、
「勝手に食べていれば」「勝手に行ってくれば」である。
ええい、ややこしいめんどくさい!
でしょう?
そんな風なので、
もともと、
ただ「家族だから常に相手も視界に入れて、
一緒に穏やかに共有して意味なく楽しむ」ために、
「お茶を入れる」、
なんてことからは、
最も遠くにいる人だ。
●
きっと、
姉は「家族といる」のが別に本当は無条件では楽しくないのだ。
別に落ち着くわけでもないようだ。
常に自分の思い通りにすることだけ考えて、
自分を楽しませてほしいことばかり思って、
そうならなければ、
心の奥ではちょっとしたことでイライラキリキリしているから。
いや、
それならばそれでいい。
ひとりでやっていけばいいんだ。
ひとりで好き勝手すればいいんだ。
それでいいじゃないか。
それならば問題はない。
しかし、
「暮らし」の大事な部分のことはできないしやらないので
ひとりでは暮らすことはできないししたくない。
人に無理やりにでもやらせたい。
人を自分の思い通りにやらせることで支配欲も満足させたい。
しかも自分は損せずに。ラクをして。
で、
もし思い通りにしたい放題させてくれて、
自分のこと周りのことを全部してくれたのならば、
そのかわりに、
相手にご機嫌にしていてあげる、
はしゃいであげる、
サービスしてあげる。
いい子をアピールしてあげる。
っ
てな感じだ。
そして、
それも含めてめちゃくちゃな部分に関しては、
「家族やねんから私を認めて何でも許せよお前」
なんてしてくる感じだ。
でも、
そんなんじゃこちらにとって「家族」だなんて思えない。
自分に都合のいい時だけ「しもべ」みたいに扱って、
自分は「王子様」みたいにしていて、
こちらが居れるわけがない。
どんな子であってもありがたく子を思ってくれる「母親」以外は。
都合のいいのが好きな自分だけ気分がいいかもしれないが、
周りは全然楽しくないし和まないし幸せではない。
●
で、
自分の立場がかなりヤバくなってきたと思ったら、
こうやって、
「サービス」で機嫌をとろうとする。
やらない方がいいのに。
逆に印象が悪い。
もともと普段は「へんっ」ってやってるのだから、
「自分だけ好き勝手」が昔からしみついた基本なのだから、
そちらは全く変えられない本性なのだから。
それなのにそんなことやると、
「目的」が全部まるわかりなのに。
僕は何年姉を見てきていると思ってるねん。
知ってるやん。
●
で、
そんな感じで、
行くといつも、
いれられているお茶。
「お茶を濁す」という言葉が、
思い浮かぶ。
「お茶を濁す」
=その場しのぎでいい加減なことをいったり適当なことを言って、取り繕おうとしたりごまかしたりすること。
「茶番」という言葉も、
思い浮かぶ。
「茶番」
=ばからしい、底の見えすいた物事。
そして、
新聞の勧誘の営業所のおっちゃんの、
「新聞とってくれたらサービスしまっせ」
という言葉も思い浮かぶ。
そう、
あのお茶は、
交換条件のサービスみたいなものだ。
普段の今まで家族にさんざんしてきた、
「そっちがしてくれたら私も良くしてあげる」
の裏返しの、
「サービスしてあげるから私に良くして」
だ。
こんな表面的に媚びるようなことをしては、
かえって僕には逆効果なのにな。
余計にイヤになる。
でも、
これをすることで自分では、
「私は弟にやさしくていいことをしている」
と自分の世界の中だけで、
「自分はいい子」と勝手に思いこめているのかもしれない。
ちょうど、
何度もあったように、
僕ひとりに色々とやらせておいて、
自分は何もしないくせに口だけで、
「ひとりで全部背負わなくていいのよ」
なんてことだけ言いに来るあの姉の、
一方的に思う「いい子の私が主役の世界」の気持ち、
と同じなんだろう。
その世界の中では、
「実際の自分はどうしてるか」なんて関係ないのだろう。
なんだかなぁ、だなぁ。
●
ということで、
そんな感じのお茶は、
飲む気がしないので、
せっかく茶葉からしみ出た「お茶」には申し訳ないけれど、
母には何も言わずに、
ずっと飲んでいない。
---思わず“お茶をにごす”という言葉の語源を調べたよ---
(おしまい)