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「ラッキー! クロスワード」誌のイラストが完了。
編集部からのお題は、「今だからこそ、魅力再発見! 昭和のスター俳優」↓ 編集部からのお題は、「人生、山あれば谷あり!? めまぐるしく上がったり下がったり」↓ 編集部からのお題は、「季節の移ろいを感じるね 春風にふわり揺れた♪」↓ (このブログへの掲載は編集部の許可を得ています)今回は、「パズル誌のイラストを紹介した記事のときは、そのタイトルや絵から何か言葉を拾って何か書く」はお休み。この1月は、どうも内側向きだ。去年後半からの流れでからか、どうもまだなんだかアレコレ気持ち的に忙しい。出かけたり何かに興味を持ったりをあんまりしていない。ひたすら作業などをしている。暖かくなってきたら、この流れが変わっていくことを期待して。(そう、ほんとこの冬は寒さがしっかりとしている気がする)ということで、まだイラストの〆切りがいくつか残っているので、今日は軽くこのくらい。近頃は根菜を沢山食べるようとしている、特に蒸してシンプルにそのものの味と塩くらいで食べるのが、とてもいいなぁと思っているサノでした。|焼きみか〜ん!/ そんなこんなです。
「スーパークロスワード」誌の次の次の号の、"なごむ亭元楽"名義のネコパズル完了。で、例によって、パズル誌のイラストを紹介した記事のときは、そのタイトルや絵から何か言葉を拾って何か書く。「キューリ」<食べること>個人的には、昔はキューリと言えば、サラダなど生野菜として食べるか、お漬け物にしたり酢の物にしたりするくらいだった。が、最近では、「炒めもの」や「煮物」にしたりもする。油でジュージュー中華風に炒めても、豚肉や卵と炒めてチャンプル風にしても、トマトなどと一緒に洋風スープに入れても、なかなかにおいしい。去年の夏は味噌汁に入れてみた。「夏の味噌汁」といった感じで、悪くなかった。冬瓜の味噌汁の変形だと思えばいい。まだやったことの無い人は、お試しを。と、そんな話を、丁度同じように、ご隠居さんが熊さんに言うておりました。ご隠居「そやからな、熊、このキューリ、炒めたり煮たりしても美味しいからな、持って帰ったらやってみたらええで、ってゆうてんねん」熊さん「いやー、でもなーご隠居、わては、キューリゆうたら、どうしてもサラダか漬けもんで食べるもんや思てますさかい、なーんかこう、そう言われても、今更イマイチする気がしまへんわー」ご隠居「何をアタマの堅い事をゆうてるねん。もうとっくに昭和は終わって今は平成も27年やで。そんな融通のきかへんことゆうとって、何が楽しいねんな」熊さん「そんなことゆうたかて、今までが "人に与えられて楽しませてもらう" ってことだけでやってきたもんやさかい、いろいろなやり方で自分でやってみろって、キューリそんなこと言われても」ご隠居「あ、熊! それは "急にそんなこと言われても" っていうのんのシャレやな? シャレやったらワシも負けてへんで、よし。熊、そんなことゆうて、いつまでも同じことしとったら、えいきゅーり前には進まれへんで」熊さん「それは、"永久に前には進まれへんで"ってことでっか? ご隠居も負けず嫌いやなぁ」ご隠居「もぉ、なんでもええわ。とにかく、ウチでとれたこのキューリ、持って帰って食べ」熊さん「ありがとこざいます。けど、こんなようさんはもって帰られまへんわ。2個くらいでよろしいわ」ご隠居「何ゆうてんねんな。せっかく人がこんなに沢山あげよゆうてんのに。ワシが庭で作ったキューリはそんなに沢山はいらんゆうことかいな。これでもワシは熊のことは息子みたいに思っとるんやで」熊さん「いや、それはありがたいんやけど、そこですねん」ご隠居「どういうこっちゃ?」熊さん「わてがご隠居に可愛いがられてるのは、このたあたりの皆が知ってます。けど、それで、結構、妬まれますねんわ。お前は何かとご隠居にええようにしてもろて言うて、それで、わてが何かしとったらジャマしたり、悪い様になるように噂したりするヤツがおりますねん」ご隠居「おお、そやったんか。どこでも嫉妬して足引っ張るようなヤツはおるさかいなー」熊さん「せやから、こんなようさん物もろてここから出で行くところや、持って歩いているところ見られたら、またネチネチなんかイヤな事されますのんや」ご隠居「そやったんかー、そら知らんかったこととは言え、すまんこっちゃったなぁ」熊さん「せやから、2.3本もろたらそれでよろしいわ。懐に入れてかえりますわ」ご隠居「いや、しかしそれじゃあワシの気がすまん。ワシはお前にようさんあげたいんや」熊さん「ご隠居はーん、おおきにぃー。けど、勘弁してくなはれ。わてほんま恐がりでんねん」ご隠居「そやなー、お前がまた誰かに妬まれていじめられてもなー、けどなー」熊さん「ご隠居はん、ほんま2.3本で。コワイことはほんまに…」ご隠居「うーん、なんぞ、キューリ持って帰るええ方法はないかいなー」熊さん「ほんまにほんまに」ご隠居「あ、ほな、ウチの裏から出て行ったらええやないか。裏の庭を抜けたらすぐ川があるから、あの川のほとりをずっと歩いて行ったら丁度お前んとこの家の裏っかわに出るやないか。あそこやったら人通りも無いさかいに誰かに見られることもないやろ。そっちから持って帰ったらええ」熊さん「へ? いやいや、それはこわい」ご隠居「はぁ?」熊さん「勘弁しておくんなはれ、それはあかんあかん。それは結局一緒でんがな」ご隠居「何でやねん? どういうことやねん?」熊さん「だってご隠居、川でっしゃろ? キューリだけに、 カッパに足をひっぱられます。」
デンデケチンチンデンデケデデデデケ、デデン♪
そんなこんなです。
「コンビニ限定クロスワート」誌のイラストが完了。
編集部からのお題は、「いずれ決着をつける時が…」↓ 編集部からのお題は、「ウソか? 本当か? 知りたい!」↓ 編集部からのお題は、「粋な大人の密かな楽しみ」↓ (このブログへの掲載は編集部の許可を得ています)で、例によって、パズル誌のイラストを紹介した記事のときは、そのタイトルや絵から何か言葉を拾って何か書く。「ウソ」<以前知ったこと>「ウソ」という名前の鳥がいる。20年ほど前に「CHUN-CHUN WORLD」というCD-ROM作品で、付属の「鳥図鑑ムービー」を作るために調べたとき、「ウソ」という名前の鳥がいる事を知って、「うそ!」と思った。でも、ほんとにいる。その、「CHUN-CHUN WORLD」の付属のムービーに使うために描いた絵は、これ↓。 Wikipediaで調べてみると、古い日本語で「口笛」のことを「うそ」と言い、「ウソ」の鳴き声が「口笛」に似いてるから、この名前がついたらしい。若いコたちと山にでも行って、この鳥を見つけて、若い誰かA「あの鳥はなんて鳥なんですかねぇ」若い誰かB「あのコほっぺが赤くてカワイイ〜」若くない私「ああ、あれはウソ」若い誰かB「うそ〜!!」若い誰かA「うそでしょー?」若くない私「ウソウソ」若い誰かB「やっばりうそなんや〜」若い誰かA「ほんとは何?」若くない私「ウソ、いやホントに」若い誰かB「だからホントは何なんですか?」若い誰かA「えー?ウソなん?」若くない私「だからホントにウソ」若い誰かB「えっ! ほんとにウソなんですか?!」若い誰かA「言うてるやんウソなんやって! だからホントは何なの〜?」若くない私「だからウソやねんってホントに」若い誰かA「じゃあなんでホントの事は教えてくれないの〜?」若い誰かB「だから、ウソやんて、ねぇ佐野さんウソでしょ?!」若い誰かA「やっぱりウソついてんだ〜?」若くない私「ちがうホントやって、ウソやねんて」若い誰かB「え、ウソやないんですか?!」若い誰かA「いやーん、ホントの事教えて〜、え〜ん!! みんなウソつき〜」なんて風になってしまうことは、想像に難くない。そんなこんなです。
編集部からのお題は、「高級っぽい!? マンション名にありがちな」↓ 編集部からのお題は、「類似品にご注意!? 似たもの同士の違いを探す」↓ (このブログへの掲載は編集部の許可を得ています)で、例によって、パズル誌のイラストを紹介した記事のときは、そのタイトルや絵から何か言葉を拾って何か書く。「似たもの」<ふと思ったりすること>昔から、例えば子供の頃に駄菓子屋に行ったりすると、なんとなく「ウルトラマン」に似ているけど、どう見てもウルトラマンではない、「なんちゃってウルトラマン」の絵を描いたパッケージのお菓子、なんてのが売られていたりしたものだ。駄菓子屋に限らず、細かくは覚えて居ないが、大きくなっていく過程の中で、他にもいろいろ「なんちゃって」は見かけた気がするなぁ。もちろん、元ネタは国内のものからばかりではなくて、「なんちゃってミッキーマウス」とか、「なんちゃってチャーリーブラウン」とか、海外モノが元ネタの「なんちゃって」も多く見てきた気がする。アジアの大国の「なんちゃってドラえもん」のことを、僕らもあまり悪く言えない。例えば音楽の世界でも、昔は「なんちやってプレスリー」みたいなのに人気があったり、「なんちゃってビートルズ」なバンドたちもあったり、「なんちゃってロック」だって沢山あった。いや、そういうのは、日本のことだけではなくて、かのゴッホは「なんちゃって浮世絵」を描いているし、ビートルズだって「なんちゃって黒人音楽」から出発した。だいたいの場合、「なんちゃって」から始まる。まぁもちろん、「表現と商売は別」で、「人の考えたものをネタにちょっとだけ変えて商売するのはヨロシクない」と言われると、「視点や立場を考えると、それはそうとも思えるよなぁ」とも思う。それから、表現で「なんちゃって」をしたとしても、ずっとそのままではなく、「そこから何か自分のものを積み上げてということがあるではないですか」、と言うこともまぁ、正しい。けど、一方で表現だって、「私たちはもう40年以上この店で愛するビートルズのコピーバンドをしてます」というのも、それはそれでひとつりあり方として正しい。さらに商売にしたって、「なんちゃって」を土台にして、色んな経済活動が活発になることもあるだろうし、実際戦後の日本はそうだったんじゃないかと思ったりもする。と、こんな風に、「マネがほんとに悪いのか?」ということを考えだすと、だんだんと解らなくなる。もやもやする。それについて、「著作権とかビジネスマナー」とか、解った風な理屈で「マネは絶対ダメである」と言われると、なんかこう「心にすっきりしないもの」が残る。だいたいそもそも人は、生まれてから、「周囲の大人のマネ」で育っていくところもあるしなぁ。しかし、逆に、「なんでもバンバンマネしたら別によろしいやんー」と言われても、「ちょっとなんかそれもなー」と思ったりもする。で、まぁ、唯一このもやもやを一番納得させてくれる「マネ否定」の理屈は、「僕は、法律とか著作権とか利益とか、そんなことより単純に、 勝手にマネされたらされた方はなんか気持ちが悪いですやーん! 例えば喫茶店で友達としゃべっていたら突然向こうの席の見知らぬ人が、 僕のしゃべり方をマネして喜んでたらなんイヤな感じしますやーん。 そういう感じで、僕はマネされるんはイヤですわ!」だけかもしれないなー、なんて思ったりするのだなぁ。 |まぁ、どっちでもよろしいやん / |とにかくよく拝んでおきなはれ/そんなこんなです。
そろそろまたパズル誌のイラスト描きが続く。まずは「スーパークロスワード」誌のイラストが完了。
編集部からのお題は、「心機一転、新年度に突入 新たな気持ちで迎える4月」↓
編集部からのお題は、「古文の勉強、もう一回やる? 日本の古典を読み解く」↓ 編集部からのお題は、「暮らしや経済、化学に雑学… 現代を鋭く読み解く新書」↓ 編集部からのお題は、「他のお客様の迷惑も考えて! マナーの悪い泊まり客…」↓ (このブログへの掲載は編集部の許可を得ています)で、例によって、パズル誌のイラストを紹介した記事のときは、そのタイトルや絵から何か言葉を拾って何か書く。「迷惑」<ふと思ったりすること>ある程度の長さを生きてきて色んなヒトを見て、また昔のことなどを若い頃に比べると色々と知ってきて、その上で思うことがある。何千年も歴史を重ねても、「人間という生きもの」自体にそれほど変わりが無い。それは見た目の話だけではなく中身的なものも言っている。「戦争」はたぶん人類がいる限り無くならないかもしれないし、「いさかい」も無くならないのではないかと思う。そして「迷惑な人」も人類が生きている限り無くならないと思う。まぁ、もちろん、" 何を持って「迷惑」とするか? によるんじゃないか? "、という指摘がきっとあるだろう。全体としてどう見ても「迷惑」ということもあるし、あっちでは「迷惑」でなくてもこっちでは「迷惑」ということもある。他の人が何も思わなくてもある人にとってはとても「迷惑」ということもあるし、「平気で人に迷惑かける人」が「人に迷惑をかけない人」を見て、「アイツのちゃんとしたところが見ていてハラが立つのでワシにとっては迷惑じゃ」、ということもあるだろう。なので、とりあえずここで「迷惑な人」というのは、どう考えても、多くの人から見て、「あいつはほんとに困るなぁ」と思えそうな人、としておく。で、そういう「迷惑な人」の事を思う時に、ふと、こんなことを思ったりする。宇宙規模の長ーーい年月のスパンで、「人類」という「種」を考えたとき、「種の生き残り」という意味では、「迷惑な人」というのは「種」としては必要なのではないかと。こう考えてみる。もし、地球に何かとてつもなく急変動があったとしよう。「迷惑な人」はたいていの場合、「自分のことしか考えて無くて、バイタリティーや執着だけはある」だったりするので、「何が何でも生き残る」ということにかけては、思い切りしぶとく強いのではないか? と。地球の環境が激変しても、「迷惑な人」的な人は、「あーじゃこーだ、あーじゃこーだ、けっ!」とか言いながら、他の人を押しのけてでも生き延びるのではないか? と。すると、結果的に、「人類」という種はなんとか生き延び子孫を残せる。こんな風に、「迷惑な人」の存在というのは、いざという時の「人類の種の存続」においての、「保険」なんじゃないかと。とすれば、「迷惑な人」は絶対にいなくならない。いくらネットで「迷惑な人」を糾弾したところで、「種」がそれの出現をやめない。「迷惑な人」は「人類の保険」として、常に生まれてくるのではないか、と。ま、そんなことをちょっとぼんやり考えたりしてみる。でも、もし、ほんとにそういう様な事だとしたらよ、神様、今、生きている僕らにとっては、なんて迷惑な話なんだ。ねぇ。| 私は仏さまですよ。/ そうか、「だれが見ても迷惑な人」は「保険ちゃん」。そんなこんなです。
もう20年。
阪神淡路大震災。 早いものです。
去年のことになるけれど、自分で練って作るカラシを買いたくて、そこそこ品揃えのあるスーパーに行って、香辛料のコーナーに行った。そして、しゃがんで棚を見ていて、あるものを見つけて小さく「あっ!」とつぶやいてしまった。それは、これ。 これは「白こしょう」なのだけれど、かつて僕はこれを間違って「白にょろ」と読んでしまったことがある。
今から20年くらい前、STUDIO HARZという名前でハルナツトムとCD-ROM作品を作っていた頃、「ハルツガーデン」というホームページをやっていた。そのホームページの中で、「うふふ日本」という、ちょっとしたおもしろネタ話を書くコーナーを設けていた。基本的に僕が毎月何かしら書いて、あとは、ハルナや当時の発売元のスタッフが書いたものや、それから、ホームページを見てくれているヒトが投稿してくれたりした、いろんな話を載せていた。そこで、「白にょろ」の話を載せた。以下、当時のまんま。
うふふNo.4 白にょろ (By 佐野元)ある日の実家に帰った時の事。「ただいまー」と言いながら食堂に入ると、テーブルの上に小ビンが置いてあった。錠剤の薬が入っている様な小さなガラスのビンだ。「何やろ?」と思って上からパッと見ると、ラベルに「白にょろ」と書いてあった。「白にょろー?」僕の頭の中はたちまち?????だらけになった。そして続いて、「白にょろとは何や?白くてにょろにょろしたものが入っているのか?」と僕の頭の中は想像でふくれあがった。ちょうどそこに母親が入ってきたので「この白にょろって何?」と聞いてみた。すると、母親は不思議そうな顔をして、「それ、こしょうよ」と言った。「へ?」そう思って、ビンを取り上げてよく見てみた。なるほど、達者な字だから「こ」と「し」がくっついて「に」に見え、「う」の上の部分がつながっているので「ろ」に見えたのだ。「白こしょう」僕は一人で「なーんだ。へへへへ」と笑いながらも、「白にょろだったらよかったのに。白にょろ、見てみたかった」と少し残念に思ったのでした。(ちなみに母親はこの白こしょうを京都で買ったそうです)
これを書いたのは、たぶん1996年頃。「実家」と書いてはいるが、正確には「実家の家族が住んでいた仮設住宅」である。そう、阪神淡路大震災から1年後くらい。とにかく、そんな状況も蘇らせてもらったりしながら、僕は「白にょろ」に、19年後くらいの神戸のスーパーで再会した。「よっ、白にょろ」この文章を載せていた「うふふ日本」のコーナーには、先日「パーフェクトレインボー」を一緒に見た友人Nも、投稿してくれたり、ネタになる情報を提供してくれたりしていた。 たとえば、彼が地元の喫茶店の水槽で発見した、鳥が木の枝にとまるように珊瑚にピタッととまる、「ベニゴンベ」という魚のこととか、 彼が地元近隣の公衆電話ボックスで発見した、受話器が2つついた、「二丁拳銃公衆電話」とか。 ちょいと、普通の人がなかなか気づかないようなネタをくれたものだった。それから、当時ホームページを見てくれていた人の中で、一番多く投稿してくれたのが、今はフリーのライターをしている丘村奈央子さん。熱心にいろいろとネタ話を書いては送ってくれた。その彼女の話の中で、今でもたまに思い出すのがコレ。
うふふNo.17 特別高く テレビショッピングのアナウンスで「特別価格」というのがありますが、私はしばらく「とくべつたかく」だと思っていました。安さを売り物にしているはずなのに変だとは感じましたが、きっと価値の高さとかを表す何か独特の言い回しだと思っていました。
うん、懐かしい。当時はまだプロの文筆業にはなっていなかったのだけれど、現在ではインタビューを得意とするフリーのライターさんだ。丘村さんとは今でもネット上で繋がっていて、FaceBookなどを通じてアレコレと活動をしているのを見ると、「もとバイト先のおっちゃん」的なキモチで、ちょっとなんだかウレシかったりする。
「白にょろ」からはじまって、「うふふ日本」のアレコレをずるずるっと引っ張りだしてみた。ちなみに、その「うふふ日本」のコーナー、スタジオハルツのホームページ自体が発売元の都合でネット上から消えた時に、「なごむアトリエ」の中にそのコーナーだけを移動している。「なごむアトリエ」の「昔のなごむアトリエ」のページの、「なごむアミューズメント」の中の「記録うふふ日本」のところに、全て残しています。面倒で無ければ探してください。
去年買って、ずっと読まずにいた雑誌を、ようやく読み終えた。その中の連載で、美術史学者の辻惟雄(のぶお)さんのエッセイに書かれていたことで、「なるほどなぁ」と思ったことがあった。それは、中国の昔の思想家の荘子が書いた著作『荘子』にあるくだりで、「機械アルモノハ必ズ機事アリ 機事アルモノハ必ズ機心アリ」と言う一文。で、その辻さんが読んだ福永光司さんという人の談話では、その荘子の一文をこのように解説していたと書いている。「人間は便利な機械を持っていると、 必ずすべてのことが機械で処理できると思ってしまって、 まったく機械のような心になってしまう」そして、辻さんは、「人類の状況そのものを恐ろしいまでに言い当てている」とまとめている。うむ、そうやなぁ、僕の知っている人の全てが機械みたいになっているとは思わないが、それでもやはり、「原発事故のあとの電力会社の対応のニュース」とか、「スマホを無機質な顔でじーっと見ている街や電車でのヒトの顔」とか、そういうのを自然にパッと思い起こしてしまった。人はともかく、せめて自分はそのあたりを、淡々としていたとしても、ちょっと心しておきたい。とそんなことをふんわりと思ったりする。それにしても、2300年前にもすでに、ヒトにはそんな状況の時もあったんや。なんだか今年の寒さは、結構身にしみる気がするのだけれど、他の人はどうなんだろうか? そんなこんなです。
昨日、友人と歩いていたら、空に虹を見た。 しかも、地面から地面へ途切れずにぐるっと半円になった、 いわゆる、「パーフェクトレインボー」だった。いいものを見た。が、思いきり寒かった。それだけの、そんなこんなです。
「おもしろ アロー&スケルトン」誌の、なごむ亭元楽名義のうさピョンパズル完了。 で、例によって、パズル誌のイラストを紹介した記事のときは、そのタイトルや絵から何か言葉を拾って何か書く。「おにぎり」<なんてことない短い文>僕が小さな子供の頃のお弁当に入っていたおにぎりは、「たわら型」。弁当箱を開けたら、海苔はちょっとベチョッとなっていたが、フワッとおにぎりの匂いがしたもので。匂いってのは、なかなか文字に正確には書けないなぁ。おにぎりの匂いとしか言い様がないのだけれど、とにかく、フワッとおにぎりの匂いがした。個人的には梅とサケが好きだった。が、塩昆布も捨てがたい。我が家はだいたい「ふじっ子」で、お米に茶色く味の染みついているところが好きだった。梅の場合、ウチの母親は種もそのまま入れたりすることがあったので、たまにうかつに噛みついて「ガリッ」となって、歯が「ジン」となって「ぐっ」となったりした。それでも味は、美味しかった。20年前の阪神淡路大震災の時、配給でコンビニのおにぎりが配られてて、最初は助かった、ありがたかった。ほんとに。でも、あれは毎日毎食食べると、だんだんと食べられなくなる。ほんま、そうやねん。そんなこんなです。
あけましておめでとうございます。