以前ここにも書いたけれど、
夏の終わり頃以降、
子供時代から(正確には生まれる前からだな)の写真を、
ちょっとずつスキャンしてパソコンに取り込んでいた。
で、先日、ようやく全て終わった。
アナログのカメラで写した写真プリントは、
だいたい全て画像データにして保存した。
ほんとにタイヘンだったー。
その作業の途中で、
小学生の頃の写真を見ていると、
「阪神パーク」で写した写真がいくつかあって、
「ああ阪神パークって、子供の頃、大好きやったなぁー」
と思って見ていた。
もちろん、
ある年齢以上の関西人なら知っている人も多いと思うけれど、
「阪神パーク」は西宮の甲子園球場の近くにあった、
阪神電鉄がやっていた動物園やプールのある遊園地だった。
調べると、
戦前の初代「阪神パーク」はもっと浜手にあったらしい。
戦後、甲子園球場の側に移って、
高度成長期の頃を中心に阪神間で人気のあった、
家族向けのレジャーランドだった。
時代とともに影が薄くなって、
1997年には敷地の一部を住宅展示場に変えて入園無料になり、
2003年に完全に閉園してしまった。
そういえばその閉園のころは、
「宝塚ファミリーランド(〜2003)」や「近鉄あやめ池遊園地(〜2004)」など、
同じ時代に人気のあった関西の他の遊園地の閉園のニュースが続いて、
なんだか少し寂しい気持ちがした。
人気がピークだった時代とターゲット層は少し違うけれど、
「神戸ポートピアランド(〜2006」もそのちょっと後に無くなった。
さて、「阪神パーク」の話しに戻る。
最初、
小さな子供の頃は親が連れて行ってくれた。
そして、
ある程度大きくなると学校の友達と一緒に、
浜手の道路を芦屋から甲子園まで自転車で走って、
遊びに行った。
まず、「阪神パーク」には動物園があった。
そこには、当時有名だった「レオポン」がいた。
お父さんがヒョウでお母さんがライオンの雑種だ。
動物園が人工的に交配させて生まれた混血の動物だった。
檻の前に立って、
「ヒョウとライオンの合いの子やねんて〜」と親に言われて、
「へぇぇ」っと思いながら「レオポン」を見たりした。
今はもう倫理的にそういうことはできない。
だから、ある意味で、
やりたい放題だったあの頃のそういうことって、
考えようによれば貴重だったなーと思う。
それから、
「阪神パーク」にはいろんな遊具があった。
僕は特にカート系が好きで、
よく乗った。
また、ゲームコーナーにあった、
当たりの穴に入るとガムが出てくるパチンコ台が好きだったなぁ。
あと、
「阪神パーク」にはプールがあった。
友達と初めて子供だけで泳ぎに来たときは、
この大きな滑り台がドキドキしたものだ。
冬は冬で、
プールとは別の敷地だったと思うけれど、
リンクが設営されてアイススケートが出来た。
さらに、
毎年秋には「菊人形」が開催されていて、
その年のテーマに沿った時代物の菊人形絵巻が展示されていた。
こうやって改めて紹介してみると、
なんだかほんとにいろいろと楽しそうだ。
「なんで無くなっちゃったんだよー」と思わなくもないから不思議だ。
で。
今回の写真のスキャンの作業中、
いくつかの「阪神パーク」で写した写真を見ていたら、
ずいぶんと長く忘れていた記憶が、
急にふーっとよみがえってきた。
「あれっ…!? "阪神子供の会"っていうのがあったよなー。入ってたよなー」
と。
「阪神子供の会」。
そんな会があったことさえすっかり忘れていたし、
その細かいことも全く忘れた。
たしか、学校で勧誘があったのではなかったか?
今はどうか知らないが当時はそういう企業主催の勧誘みたいなものが、
学校内でも結構あった気がする。
そして、内容の細かいことも忘れたが、
ただ、つまりそれは、
その会員になれば、
甲子園球場のプロ野球・高校野球の観戦の特典と、
「阪神パーク」の入園の特典が得られる会というものだった。
それらが「割引」だったのか、何かが「無料」だったのか、
そういうことも綺麗さっぱり忘れたが、
とにかく入った。
うん、入った入った。親にお願いして入会した。
そして、自転車に乗って友達と阪神パークに行って、
使った使った。そうそう。
それで、プールに入ったりスケートをしたり、したした。
ずいぶんと長い間消えていた脳みその回路の一部に、
「ポッ」と再び火がともった気分だ。
僕は神戸市生まれではあるけれど、
3歳の時からずっと芦屋市で育った。
だから、間違いなく「芦屋の子供」であった。
けれど、前にも書いたことがあるけれど、
ここまで生きてきた中で、
まず「芦屋の子供」=「お金持ちの子」という、
外の世界で勝手にイメージづけされるのにウンザリしたし、
逆に、実際を知っている人が揶揄ぎみに口にする、
「あの人芦屋やゆうてるけど、芦屋ゆうてもいろいろやからなぁぁ」、
というイヤミな言い方にも常々ちょっと抵抗を持った。
そりゃまぁもちろん、
芦屋に住んでいた子供で、
そういったイメージにピッタリな子供たちもいただろう。
たとえば、
あの時代特有のものも含むけど、
●古くから長く芦屋に住んで、地主、漁師、土地持ち農家の流れをくむ人たち。
●明治以降、大阪の船場の商人が芦屋に持った本宅・別宅・海の家・別荘の流れをくんでその後も暮らしている人たち。
●昭和になって成金してから芦屋の山手に大きな家を買ってくらしている人たち。
●大企業の重役が購入した家とか、エリートコースの社員用の大きな一軒家の社宅に住んでいた人たち。
そういったところの子供は、
「芦屋の子供」と括られてもアイデンティティ的には別に問題ないだろう。
けれど、じゃあ、
あの昭和の後半を、
主に芦屋の浜手に暮らした、
●そこそこ古くから住んでいるが浜手の「小売りの小さな商店」をしてる人たち。
●昭和の半ばに「小さな分譲住宅」や「アパート」に引っ越してきた人たち。
●昭和の半ばに企業が建てた大きな団地式の「社宅」に引っ越してきた人たち。
の「そうお金もちでもない普通の家の子供」であった僕たちは、
どう思ったらしっくりとくるのだろう、
とそう考えていた。
例えば、
生まれたときからずっと神戸の三宮で育ったウチの祖母などは、
正真正銘「神戸の子供」だ。
その流れで同じく神戸で生まれたウチの母も、
10代のうちの数年は戦争のせいで疎開先の加古川で過ごしたけれど、
それ以外はずっと三宮周辺で、
さらっと「神戸の子供」といって差し支えないだろう。
では僕は?
と思った時に、
外からのああいったイメージのせいで
素直に「芦屋の子供」と言いたくない様な、
屈折した思いに常にモヤモヤとさせられてきたのだ。
結果、ふわふわとした根無し草みたいな、
「自分の置き所(つまりはアイデンティティ?)」の定まらないような、
そんな感じを持ち続けてきた。
だけど、
今回の「子供の頃のアルバム」を見て、
「阪神パーク」から「阪神子供の会」の流れで、
「すとん」と気持ちが着地した。
そうか、僕らは、
「阪神間の子供」だったんだなー、
と。
いや、今後、人にはっきりとそういう風に言う、とか、
別にそういうことではなくて、
あくまで自分の心の中だけの「納めどころ」の話だし、
それから、
今の芦屋の子供はまたちょっと状況が違うのだろうけれども、
あの時期に限定すると、
僕らは昭和の「阪神間の子供」だったんだな、と、
そう思うと、
なんだか納得がいったのだ。
そう思うと、
かなりスムーズに気分が納まることに気づいたのだ。
「阪神間」、
つまり大阪と神戸の間の尼崎市から芦屋市にかけての、
どちらかというと浜手の、
企業の社宅なども多かったエリアの、
とりわけ昭和の時代ではまだ下町の感じも多く残っていた地域。
そんな僕ら阪神間の子供の男の子の多くはきっと、
「阪神子供の会」に入って、
自転車を東西にガンガン走らせて、
工場の匂いや酒蔵の匂いや、
わずかに残っていた海の匂いを嗅いだりしながら、
阪神パークや甲子園球場や西宮えびす神社とかに行って遊んで、
自由な気風の昭和の阪神間の子供をしていたのだろうなぁ。
と、
そんな具合に、
今回の「写真のデータ保存」という面倒な作業を終えてみると、
その前には思いもせずにいた、
「長くひっかかっていたことに対する結論」みたいなものが、
結果的にひょいと出てきて何だか勝手に一人でスッキリと、
してしまったのだった。
なんでも面倒がらずにやりきってみるものであるなぁ。
そんなこんなです。