暮れにダダッと大掃除はしたけれど、
年があけてからさらに細かく掃除をした。
なんとなくそんな気分。
一昨日はキッチンの床をキレイに拭いた。
汚れていたところとの差はこんな感じ。
さて、
↑上のような写真を見せたときに、
(A)「いやぁ、拭いたところキレイになったねー」と言う人と、
(B)「どんなけ汚していたんや! ゲハハハハハハ!」と言う人がいる。
そのコトのどちらの側面を観て相手に投げるか。
どちらにまず目や心が入り易くて相手にそれを返すのか。
もちろん他にも
(C)「ふーん」だけの人もいるだろうし、
(D)「マイペットより重曹を使った方がいいよ」と言う人もいるだろうし、
(E)「私だってこの間床を拭いてそれから庭も掃除してそれに壁も拭いて私はタイヘンでそんでワタシはわたしは」と言う人もいるだろう。
まぁ、でも、ある部分だけで分類して、
(A)と(B)と(その他)とする。
で、そしたら、
(B)さんというのは、あとあと、
なんだか色々とシンドクなっていくんじゃないかなぁ、と、
今まで色んなヒトを見てきてなんだかそんな気がするなぁ、と、
最近ちょいと思ったりしているのだ。
同じような話。
年明け2日くらいにテレビのインタビュー番組で、
小説家の村上龍さんが言っていたこと。
もう、時代は変わったのだと言う村上(龍)さんが、
以下のたとえ話をした。
僕にAという友だちがいたとして、
そのAのさらに友だちのBさんが、Aに、
「なぁ、村上龍にコレコレを頼んでみてくれないかぁ?」
と頼み事をしたとする。
で、頼まれたAが、僕のところにそのことを言いに来る。
そういう時、
前の時代では、
Aは、「なぁ、村上〜、いいじゃないか〜友達だろ〜?
だから僕の友達の頼みを聴いてやってくれよ〜、なぁなぁ〜」
という。
そういうやり方が普通に通用した。
しかし、
これからの時代は、
Aは、「友達にこういうコトを頼んでくれと言われたが、
もし、村上、お前がイヤだったら断るけれど、どうする?」
とちゃんと言わないと通用しない。
と。
(細部の言い回しが間違っていたらごめんなさい)
近くの弓弦羽神社の境内に大きな木がある。
推定樹齢が350才。
幹の周囲の長さは神戸市で一番。
(↓の写真、クリックで大きい写真が出ます)
これは、
神社にあるから残っているのだ。
昔は (といってもそんなにめちゃくちゃ昔ではない) たぶん、
このくらいの木はもっともっと残っていたのじゃないかなぁ。
でも、今では、
自分たち人間の作った価値ある建物でさえ、
スキあらば平気で壊しちゃうんだから、
木くらいへっちゃらけで切っちゃう切っちゃう。
そんでもってマンションを建てちゃう建てちゃう。
「儲かってよかったでちゅねー」。
けれど、
木は、古来から、ダイジなんだぞ。
だから、
こうやって神社があることで、
かつての里の古木が、
根こそぎは無くならずに済んでいるのだよなぁ、
と思うと、
「神社」というものをアチコチに建ててくれた先人に、
間接的ではあるとしても、
結果的な効果には感謝かもしれない。
それよりなにより、
こういう古く大きな木の下に立って見上げていると、
なんだか安心する。
その弓弦羽神社から、
東へ向かって暫く歩いたところに、
こんな碑と看板が立っている。
(↓の写真、クリックで大きい写真が出ます)
「右も左も有馬道」
なんてゆるくて、なんて親切な碑なんだろうか。
このくらいでもいいと思えるのはなんでだろうか。
何より、ベタベタとしていないところがいいな。
それでも冷たくはない感じ。
「いままで逆が普通だと思っていたけれど、
よく考えたら、
そりゃ、そっちの方が自然で普通かもしれないね」
ということは、
まぁ、あるんだろう。
これからは、タクサンそういうことがあるかもしれない。
そういうキモチにスイッチできた時は、
なんだか心にちょっと光が入った気もして、
それでウレシイキモチになれたのなら、
それだけでも、
ちょびっとでも、
自然に次に向かう歩みが出たんだ、
と言えるのではないか、
と思ったりする、
年の始まりです。
そんなこんなです。