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数日前から観ていた本を、今日読み終えた。兼先 勤さん著の『神戸街角今昔』。なかなか興味深い写真が、いくつも載っていた。で、中でも、ちょっと気になる写真があった。それは阪急三宮駅の西口の写真で、まだ、三宮駅よりも西に電車が通じていなかった頃の写真で、(のちに神戸高速鉄道が乗り入れて西につながる)終点の三宮の西口で「ここでおしまい」になっている写真だ。昔の三宮の写真の載っている本はいくつか持っているけれど、この状態の写真は始めてみた。面白い。 そして、今の場所でいうとどこなのだろう、と思った。西口を出てすぐのところか、もう少し西の交差点のところか、どちらかだろう。ので、カメラを持って昼の食事のついでにササッと行って来た。 西口を北に出てすぐに。ここだ。きっと。外壁や内装などは変わっているだろうけれど、基本の構造はそのままみたいだな。左の壁のアーチ型の出入り口がたぶん同じじゃないかな。しかも、何より、上の屋根にあたるところのカーブの曲がり方が一緒だ。素早く納得。目をもう少しだけ入り口の方に移す。「ここも、もうちょっとしたら変わってしまうのかもしれないなぁ」と思ったりする。そうかぁ。 そう思って、もうちょっと中に入って、出入り口を改めてちゃんと写しておく。 これらの、西口の写真を写したちょっと前、電車で三宮に着いて西口に降りるときに、先日の記事にも載せた西口の構内を、前とは逆の方向からも写しておいた。 西口改札から出る時のこの感じ、僕は何回見たことになるのだろうか。この西口の感じ、好きなんだけれどなぁ。そして、小さなアーチを抜けて、階段もしくは左のエスカレーターを降りる時は、こんな感じ。今度は大きなアーチを抜けながら下へと。昔は降りてすぐ左に書店があった。 ああ、この照明はいいなぁ。、改めてじっくりと観ると、カッコイイ。ここを壊して変えてしまうときは、この照明はどこかに残してほしいなぁ。でも、やはり、「そんなん知らないでちゅ。昔のものは、捨てちゃいまちゅー!」なんだろうな。もっと小さければ、欲しいくらいだな。 さて、せっかく三宮に出たので、この間の、阪急三宮駅周辺を記録した記事、「今は何気ないものだけれど無くなると忘れるからここに残しておきたくて。パイ山に風が抜ける間に。」の時には写しきれていなかった写真を写してきた。まず、前の記事の、阪急三宮駅東口を東へと出た、昔は映画館のあったこの広い通路。 この逆向きで、東口の改札に上る階段がコレ。 上って正面が改札で、上がって左に行くとJRの西口改札へとつながる。ここも、何度も上がったり、下がったりしたなぁ。昼にも夜にも。次は、北側に出て、下の写真のところ。 これをずっと右、すなわち西へ行く途中に、線路の下を南側に抜けることのできる通路がある。 それが↑の写真。これは南から北を向いたもの。この感じももう古くからなじみの景色だ。僕が子供の頃から基本的な雰囲気はほとんど変わっていない。少し薄暗い感じが、逆にいいのだけどな。建て替えられると、どこもかしこも、テカーッと明るくなっちゃうのだろうな。どこもかしこも明るいというのは、実はあんまり心身ともに健全じゃないのになぁ。
で、そして、前回、「楽天地」の紹介のところで、「ここも楽天地の範囲内じゃなかったかな」と載せた、JR側の2Fの古くからある狭くお店の並ぶこの部分。 先ほどの北南に抜ける通路の途中に、ここへ昇る階段がある。やはり、ここも三宮阪急楽天地。 居酒屋とか増えているなぁ。行ってみたいなぁ。ある時期はほんとに閑散としていたのに。まぁ、家賃の安さとか、最近は気取らないお店が人気とか、なんてのもあってかもしれない。そうやって、ようやく最近、場所の特性が逆にいい作用として出だしてるんだから、この時点であっけなくここを無くしたりしない方が神様の受けは絶対にいい、と強く思う。またまた、写して来た写真をこうやって整理をしていると、やはりまだ写し足りない気がしている。特に、「線路の下を南北に抜ける通路の写真」は、もうちょっと南の喫茶店とか寿司屋とか並んでいるあたりとか、逆向き写真とか、写しておけばよかった。あと、中華の民民とか喫茶店JAVAとか、ということで、また、第三弾、あると思います。そんなこんなです。
今から20年前の1993年に写した神戸三宮の写真がある。その当時の僕は、パソコンを使ってアニメーションを作っては、幾つかのコンテストに出していた時期で、あるコンテストに応募するアニメーションの素材として、人がヨコに向かって歩いている写真を使いたいと思い、三宮に出掛けた際に写したものだ。JRの西口か阪急電車の東口から南の交通センタービルの方へ出て、センター街に向かう横断歩道の真ん中から西側を写した写真で、まだ阪神淡路大震災がおこる前なので、左の奥に旧「神戸新聞会館」なども写っている。それが、これ↓。で、これが今は、こうなっている。↓ 左奥の薄い緑の壁面の建物が、震災で壊れて無くなった旧「神戸新聞会館」を、2006年に再建した通称「ミント神戸」。写真の上部の黒い部分は、数年前に出来た、交通センタービルの2階から南のビルに延びている通路だ。 さて、最初の1993年の横断歩道の写真を写した時に、もう1枚写した写真がある。それはその横断歩道からJRを隔てて北っかわになる、阪急三宮駅のビルで、昭和の初めに建てられた、小振りのサイズで有りながら、今みても格好の良いビルだ。それがコレ。1993年の撮影。北東からの眺め。↓ 改めて、なんだかとてもステキなビルだ。しかしこれも阪神淡路大震災で被災して壊れて、その後、仮の建物的なものが建ち、今でもそのままで、こんな感じ。↓ で、ここに、この数年内に、大きな駅ビルが建つらしい。その新しく建つ予定のビルでは、外観の一部に昔のビルの塔のような感じと、アーチ窓のデザインはあしらうとされているが、ビル自体は前のビルと比べると、かなり大きいものが計画されているようだ。ほんと、「もうどデカイのはいらないよ。 コンバクトな街である三宮らしい、 昔みたいな小振りでイキなものでいいじゃないか」と思うんだけれど、たぶん、誰がなんと言おうと、「ボクちんはここにデッカイのんを建てるんでちゅー!」って感じで、エラソなビルが建つのだろう。けど、まぁ、今回の場合は、そういうのが言いたいワケではなくってね。 三宮駅の震災後から今に至っている「仮の建物」、まぁ、どうみても、ショボイ、といえば、しょぼい。けど、ショボイものではあるけれど、思えば震災から18年ちょいくらいの長い年月を、みんなあの風景と付き合ってきた。18年といえば、生まれた子が18才になる年月だ。6年生だった子が30才になる年月だ。32才の人が50才になる年月だ。52才だった人が70才になる年月だ。72才だった人が…、もういいか。まぁそのくらいの長い年月、三宮のあのあたりに行くといつも、あの景色をずっと見て感じてきた。その長い付き合いの「なんてことはない三宮駅あたり」が、ここ数年で確実になくなるのだ。そして、これは誰もが経験すると思うけれど、いつもそこを見ていたはずなのに、無くなってしまうと、そこがどうなっていたか、細かく何があったか、たいてい忘れちゃうんだ。だから、ここにちょっと記録しておきたいと。 つまりは、前回の「泉勇之介商店」の場合は、「神戸にとって本当は価値のあるものが無くなってしまって、せめてここに写真を残しておきたい」、というものだったけれど、今回のはちょっと違って、「何気なく今あってなんとなく見ているものを、ちゃんと存在しているうちに記録しておきたい」というものなんです。さらに実は、あの周辺には部分的に、以前のビルだったときの貴重な名残がいくか残っていて、何げ無さすぎて今もチェックされにくいだろうし、改めて記録しようとも思われにくいだろうし、きっと次のビルを作るとなるとあっさりと無くなっちゃうと、思うのだ。だから、サラッとでいいから、ここに記録してとどめておきたいなと。 前置きが長くなってしまったけれど、ここから先の記録は、写真をメインで言葉も添えて。(写真はそれぞれクリックすると、別ウインドウでもうちょっとだけ大きな写真が開きます)まずはもう一度、「仮の建物」をもう少し大き目に。 こやって見てみると、このぐらいの建物でいい気がしないでもない。前まで近づいてみる。結構「カワイイ」。 カメラのレンズのせいでえらく尖った角度にみえるけれど、実際はもうちょっと緩やかで。ガラスの部分をよく見ると中に螺旋階段が見える。これは昔のビルにあったものをそのまま利用したものだ。↓の図のように塔の内側に螺旋階段があった。 震災後、解体をしたときに、螺旋階段も含めて下層部分の構造は残したのだろう。東の道路側から上に登る階段。 震災前のビルではこの上に3館の映画館があった。(阪急シネマ、阪急会館、阪急文化)震災後も「阪急会館」の名で1館だけ映画館が残っていて、その間この階段は映画館専用の階段だった。その映画館も数年前に無くなり、今はこれを上がると専門店があり改札口にも通じている。そして、逆に下に降りる螺旋階段も残っている。 さっきの上への階段は道路側から、こちらは後述する、広めの通路を内側に入ってすぐのところに。ぐるっと下へ螺旋階段。 今は地下に「いかりスーパー」というスーパーがあるが、昔はこの下は阪急百貨店の小店舗の食料品売り場だった。あのころのこの階段はどうだったのだろう?外の階段とこの階段は繋がって出入り口は1つだったのか、きっとそうだと思うのだけれどハッキリ憶えていない。(ほらね、忘れちゃうでしょ?)映画が終わって上の階から螺旋階段を、みんなでテロテロと降りてきたことしか憶えていない。で、地下へは降りずにさっきも書いた広めの通路を入る。下の写真で言うと、さっきの階段は正面の明るい出口のあたり、そしてこの写真の背後に軽い階段があって、それを登ると阪急三宮東口の改札がある。 今でも待ち合わせに使われるこの広めの通路、昔はもちょっと広くて天井も高かった。そして上の張りの部分に今上映している映画の看板だかが、横に長くかけられていたように思う。↓こんな感じだったのではないか。 では外へ出る。北側へ。上の通路の写真で言うと左側へ。いつからか、「パイ山」と呼ばれる広場がある。 小さな小山が幾つかある広場。それがオッパイの形みたいなのでこの名前がついたという。ここは待ち合わせ場所でもあるけれど、路上ライブ演奏のメッカでもある。たまに「うまいなぁっ」ってな感じのバンドが演っていたりもする。この写真の右手が駅になるのだけれど、そこにデカイビルが建ったりすると、このパイ山ののどかな雰囲気も変わってしまうかもしれないな。何より風の抜け方は確実に変わっちゃうだろうな。とういより、ビルが出来ても残るのかなぁ。この土地は誰の持ち物なんだろうか? 「パイ山」から西へ向かう。これが駅側。真ん中から少し右に通路が見えるけれど、そこを入ると先程出てきた通路の方になり、駅の改札へも向かえる。でっかいビルに変わると、この風景もきっと変わる。何より、今のようにすぐ空は見えなくなる。見た目も流れる風も絶対に変わってしまうが、まぁきっとここの権利を持っているボクちゃんたちにとっては、「そんなこと別に知らないでちゅー、建てるんでちゅっ!」なんだろうなぁ。おっと、ついつい。途中で「楽天地」の案内。 楽天地と名付けられているところが、どこからどこまでになるのか知らないけれど、阪急とJRの高架の間のスキマの路地裏的飲屋街がたぶんそうで、そしてJR側の高架の2階↓ここも楽天地の範囲内だったと思う。僕の母親は戦前、まだ住宅地だったこのすぐ北側に住んでいた頃に、ここに来て子供用の遊技施設で遊んだ、という話を聞いたことがある。今はシャッターが閉まっているところが多いが、最近、新しい飲み屋などがちょろちょろとできているみたいだ。次の再開発ではこれもなくなっちゃうかもなぁ。また、もとにもどって、さっきの通りを西へ。ここは以前、「三劇」という映画館があったところだ。10年くらい前はまだあったんじゃないかなぁ。 この並びには他にも、以前には、映画のポスターが飾ってあったマニアックな喫茶店や、「竹葉亭」という鰻屋さんなどもあったりした。今はもう、ゲームセンターとコンビニが並んでいる印象。そして、阪急三宮駅の西口に。 こういうのは普段、つい見落としてしまうけれど、昭和な感じのシャレたデザインが上の方にあしらわれている。そして、階段とエスカレーターの方へ上がって振り返ると、こんな感じ。西口のメインの待ち合わせ場所でもある。 再び階段とエスカレーターの方、すなわち改札のある方へ目を戻せば、こんな感じ↓。ここは震災前と変わらない。とても素敵だ。これは無くなるのはもったいないなぁ。こんな駅の構内が大きな都市部にずっとあってもいいと思うけれどなぁ。 こうやって改めて見て、初めて気がついた。ここの西口のアーチ、そうか、東口のかつてあったビルに意匠としてデザインされていたアーチと、イメージ的に繋がっていたのか。
いいねぇ。そして、階段、もしくはエスカレーターを登りながらふと左を見ると、そこにもアーチ状の窓が。 上からぶら下がっている照明器具も、シュッとしながらも「人が作った」感じがしていい。 こうやって並べて見てみると、「ああ、あそこも、あのあたりも、写しておけばヨカッタ」なんて、足りなさ加減を思ったりもする。まぁ、キリがないかもしれないので、このくらいでヨシとしておくけれど、また機会があれば写真に写してきて、載せようと思う。なんだか最近ほんとに、人間の心の安定にみあった程よいサイズがある、ような気がしてならない。それは「新しい」とか「古い」とは関係ない話だから、「心地よいサイズ」とそのデザインをそろそろ、もっと追求してそこに居るようにした方がいいんじゃないかなぁ、と、思ったりする。そしてそれが、また後の人たちに、「これはいいなぁ、ずっとおいていてほしいなぁ」と思って貰えることが、世代と時代を超えたコミュニケーションじゃないかと、そういうちょっとコナマイキことを、思ったりしている。そんなこんなです。
11日に手帳の販売を始めたけれど、なんだかちょっと、注文ページの送信フォームの調子が悪いみたいです。12日以降で今までに送信フォームから注文をして、まだこちらからの返事が届いていない方は、改めて、メールソフトから注文してください。お願いします。スイマセン。 もう10年にはなるパズル誌のイラスト仕事は、一部のものはネットを通じてデータで原稿を送っているけれど、基本的には、理由があって(それはここでは省略)、仕上がったものを宅急便を利用して東京の編集部まで送っている。で、時間のあるときは、クロネコヤマトに電話して荷物を取りに来てもらったり、クロネコヤマトを扱っている近くのお店まで持って行ったりして、送っている。けれど、原稿の仕上がりが遅くなってしまった時は、ここからずっと浜手の方にあるヤマト運輸の営業所まで、歩いて持って行く。そこへ直接、夜の7時までに持って行くと、翌日に東京に届く最終便に間に合うからだ。その、ヤマト運輸の営業所の周辺というのは、古くから酒蔵があるあたり(灘五郷と呼ばれる地域)の一部で、昔は大手の酒蔵に混じって小さな酒蔵もあり、とても趣のあるところだった。阪神淡路大震災をきっかけに、その小さな酒蔵の多くは無くなってしまったけれど、ヤマト運輸に行くまでの道の途中にある「泉勇之介商店」は、灘五郷でも唯一残る木造の酒蔵だということで、僕もこの前を通るのが前から好きだった。原稿を送りに行くときはたいてい7時前なので、夏以外はもう暗くなっていたりするけれど、たまに散歩で前を通ったり、一度、中に入って直売している日本酒を買ったこともあった。ホントに半民家な感じがとてもヨカッタ。これぞ神戸の歴史の一部の酒蔵でございっ、どうだ京都! パンとケーキだけだと思うなよー!ってな感じで。
この夏に勉強をした、神戸商工会議所が主催の「神戸学検定」のテキストにも、「市内の文化財」のページに、「国登録 有形文化財」として載っていた。 ここらの全国的な名のある大手(白鶴や沢の鶴などなど)は、今では大きな工場で日本酒を作っている中、この木造の建物の中で昔ながらに作っているのだから、そりゃそうだろう、有形文化財なのは、当然だ、と。それが、秋ごろだったか、ヤマト運輸に原稿を持って行くために前を通ると、なにやら覆いがかけられる準備をしているような感じになっていて、「あれ? 補修工事でもするのだろうか?」と思っていた。そして、今月アタマごろ、イラストの締め切りが続いていたうちのある1日、じっくり描きたかったので6時ごろまでの作業にして、その原稿を持ってヤマト運輸営業所に向かっていて、いつもの「泉勇之介商店」の前で、「えっ?!」と立ち止まってしまった。ゴソッと、何もかもが無くなって、更地になっていたのだ。あの趣のある建物全てが無くなっていた。「は? なんじゃそりゃ!!」と思った。「いや、もしかして老朽化の為に、復元の建て直しとかか?」とも考えたが、夜で暗く向こうは見にくいにしても、なんだかそんな感じでもない。昨日の日中に、このブログのために写してきた写真が以下。 調べてみた。どうやら借入金がかさんで競売にかけられて、不動産会社が落札をしたらしい。「なんじゃそりゃ!!」いや、このご時世なんだもの、泉勇之介商店がたち行かなくなったのは仕方ないにしても、そうあっさりと、不動産会社に売られちゃうのか?こうもあっちゅう間に、壊されちゃうのか?国の登録有形文化財なのに?ここにアレコレと書いてある。↓神戸・灘「最後の木造酒蔵」がついに解体、消滅へ【消えゆく文化財】なんだか、ガッカリだ。そりゃぁ市民も、そういう事に常にちゃんと目を向けないといけないのはそうけれど、市民が目を向けないと無くなっちゃうというのはどういうことなんだ?逆じゃないか?市民は日々に追われていてなかなかそこまで全てはタイヘンだ。市民に任せているとどんどん無くなっちゃうので、大きな力やお金を動かせるトコロが知恵を出してリードして守って行くのが、大人的文明的社会の本来なんじゃないのか?しかも、じゃあというので市民の有志が署名運動など行って、けれどそれでも駄目ならば、もう、有形文化財なんてほぼ残らないってことじゃないのか?有形文化財になるところなんてのは、古くからのものも多く結構土地があったりして、街中の便利なところなどはもう、ちゃんと対処しなければすぐマンションになってしまうだろう。世の中の「お父さん的存在」のところが守らないと、そりゃ無くなっていくのは当然だろうという実際があっても、そこにはアタマが回らない「お父さん」ということかい?でも、都合のいいときは、「わが市わが町にはこういう有形文化財があります」とか、「この近くには文化財があってたいへん文化的」とか、そういう風に利用している「お父さん」たちじゃない?そんでもって、「じゃあ、こうなっちゃうのは誰の責任?」と言ったときに、「いや、だれやろ? 私はただただすることを」「いやいや、私もただするべきことは」と言ってだーれも責任者がポッカリと存在しないように出来ていて、実際「一人一人はそんなに悪い人じゃないのよ」なんて感じの、モヤモヤモヤーッとしたわたしたちの「お父さん」なのだ。そして、「まぁ、しゃーないやん。そういうもんです」というので、チャンチャンと終わらせる「お父さん」なんだ。もう、「お父さん」なんて大っきらいだ。もう話もしたくない。「なぁ、お母さん! お父さんと離婚しちゃっても僕はぜんぜんええでー」みたいなお父さんには、なんだかもうガッカリだ。手前の東西の道の角には、まだ「灘泉」(泉勇之助商店の出していたお酒の銘柄)の看板が、駐車場のフェンスに残っている。これはどういうことだろう、と考えた。泉勇之助商店の人たちはもうこれを外すような余裕もなく、何処かに行ってしまってそのままになっているとか、なのか。そうだとしても、不動産会社の担当の人は解体に立ち会ったか、その後ここに来たりはしているだろう。その時にこれを観てどう思っただろう。泉勇之助商店に電話でもして、「かわりに外しておきましょうか?」くらい言ったりしたのか、そして、でも、「いやいや、私たちがつけたものですから、またそのうちに外しにいきます」というようなことがあったのだろうか?いや、そんな、「優しく」て「丁寧」なやりとりは、この頃はあんまり無いような気がするなぁぁ。ほんとに、今は、そんな気がする。きっとマンションが建つのだろうな。そして、来年の秋ごろには、「酒蔵の街でワンランク上の生活。 周辺と調和した佇まい。 "グランドセラー石屋川" ゆとりとおちつきの○○㎡を、 ○○○○万円から。」なんて感じのチラシがウチの郵便受けにも入るんだ。つまり、僕みたいな人間が、上のように8秒くらいでもイメージできてしまうようなものを作るために、何百年に渡ってこの地域が独特に培った匂いが染み付いていて、作ろうと思っても今後もう二度と作れないものを、いともあっさり壊してしまうのが、今のヨノナカだってことか。 そーでちゅかー。よかったでちゅねぇー、そっちは、お金もうかりまちたねー、うんうん、へぇ、そーなの。経済でちゅもんねー。そちらは、お金つかわなくてちゅみまちたねー。古いものに使うお金はないでちゅもんねー、うんうん、そーなのね。ちかたないでちゅよねー。うれちいでちゅねー。 そうこう、憂いだりしながら、個人の年賀状も、作り終えて、 もう!2月も半ば。そんなこんなです。
遅くなりましたが、毎年恒例の、「なごむアトリエオリジナルスケジュール手帳」が、出来ました。&、販売を開始しました。今年は11月が忙しくてなかなか手をかけられず、今になってしまいました。毎年買っていただいてる方、待ちきれずにすでに他のものを買ってしまったとしたら、スイマセン。最近はもう一般ではスケジュール手帳も早くて、9月くらいから売ってますよねぇ。「だから、キミもそのくらいにしないとイカンぞ!」なのかも知れません。しかし、手帳の販売を始めた10年くらい前は80冊くらい出たけれど、ここ数年は10月くらいに発売した年でも12.3人が買ってくれた感じ。ので、そんなにガツガツせずに、他のことにもムリのないよう、作りたい感じのものをちゃんと作って、売れるだけ売れればいいという感じでやってます。なのに(だから、かな)、表紙のデザインも、1パターンからせいぜい2.3種類にしとけばいいのに、やっぱり6パターンになっちゃうんですよねぇ。1つも出ないものも出来ちゃうのに。作る作る。てなことで、今年の手帳の表紙デザインは、こんなのとか、↓ こんなのとか、↓ こんなのとか、↓ こんなのとか、↓ こんなのとか、↓ こんなのとか。↓ (注・茶碗や土鍋やクツはついていません)では、いつものアナタやアナタ、そして、そうじゃないけど欲しい方も、以下のリンクからどうぞ。↓ そんなこんなです。
「クロスワードメイトmini」誌のイラストが完了。編集部からのお題は、「ウマ年にちなんで あっちもこっちも馬だらけ!?」↓ 編集部からのお題は、「役者もスタッフも一生懸命 ドラマ撮影中!」↓ 編集部からのお題は、「うーん、読めそうで読めない… 何て読むんだっけ!?」↓編集部からのお題は、「どこかが違う? 車だけどクルマじゃない!?」↓ (このブログへの掲載は編集部の許可を得ています) パズル誌のイラストは、まずはペンなどで絵を描いたものを、スキャナーでパソコンに取り込んで、画面上で修正や黒塗りやトーンや彩色の作業をして、それをプリントしたものをケント紙に貼って、適度な大きさにカットして上からトレペで保護して、それを仕上がりとして編集部に送っている。ずっと以前は、ペンで描いたものに墨を入れたりスクリーントーンを貼って、現物をそのまま仕上がりとして提出していたし、今、場合によっては、パソコンで作ったデータをのままメールに添付して、編集部に送る方法をとることもある。でも、いろいろと理由があって、(今回はその理由は省略)基本は上記のような手間をふんで仕上がりとしている。で、その手順の中で、プリントアウトした絵をケント紙に貼るとき、絵を向こうの部屋のキッチンの隅まで持って行って、そこに広げた新聞紙の上に原稿を裏返しにして置いて、スプレーボンドをシューッとかけたらそれをまた持って、仕事部屋へ戻って机の上でケント紙に貼り付ける、ということをしている。さて、ここんところ、ずっと仕事で部屋にこもり気味になっていて、「運動不足だなぁ」なんて実感しているので、昨日の作業では、スプレーボンドを吹き付けるためにキッチンへ移動するとき、運動も兼ねて、ちょっと小走り気味にしかも跳びはねる感じに移動してみた。タタンタタンタタンタタンッ。シュー。タタンタタンタタンタタンッ。ペタッ、ギュッギュッ。タタンタタンタタンタタンッ。シュー。…3往復ほどすると、なんだかハアハア言ったりして。(ここで、それを想像して笑った人、いるでしょう?)そんなことをしていると、そこで、なんだか、大阪で働いていた20年くらい前のことを、ふっーっと思い出した。あの頃は、あの事務所の中を、スプレーボンド吹きつけに行ったり紙を探しに行ったり、コピーをとりに行ったりパソコンを触りに行ったり、走るようにバタバタと移動しながら作業していたことがよくあったなぁ、と。ほんとによくオフィスで走り回っていた気がする。まるで臭いを嗅いで何かを思い出すかのように、自身の行動のあるパターンで、思い出すということもあるんだなぁ。タタンタタンタタンタタンッ。シュー。タタンタタンタタンタタンッ。ペタッ、ギュッギュッ。タタンタタンタタンタタンッ。シュー。…そんなこんなです。
セブンイレブン限定販売の「ラッキー! クロスワード」誌、4月号用の「ヒーローパズル」が完了。発売は2月の下旬。 昔はそんなことは思ってもいなかったのだけれど、最近テレビのコマーシャルを観ていて思うのは、本当に今この世の中では思い切り加工品を食べさせたがっているのだなぁ、と。「本物の味」とか「本物の風味」とかの、工場で出来た「なんちゃってー」がタクサン。いつからこんなになっちゃったんだろうか。
子供の頃、ウチのキッチンには、「土井勝の料理本」とか「NHKの今日の料理」だとか、「洋菓子の作り方」のような本がいくつもあった。母親はそれを参考にしては、自身がまだ作ったことのないおかずを作ったりしていたが、時々、まだ世間では珍しかったり、西洋からそのころ紹介されだした料理やお菓子を作ってくれたりもした。昭和の40年代(1960年代後半から70年前半)のことだ。その中でよく憶えているのが、洋風の「焼きリンゴ」だ。ウチにはあるときから、母親が隣の大野さんにケーキやクッキーを教えてもらって作るために買った、コンロの上に置いて使う「オーブン」があった。それで焼くのだけれど、リンゴはまず芯を抜く。なんという名前か知らないけれど、リンゴの中心部にブスッと差してぐりぐりぐりと回しながらつっ込んで、サッと引っこ抜くと円筒状に芯の部分が切りとれる器具で、(種部分が少し中に残ったりするのだけれどね)これだけでも「子供」には面白くて仕方ない。うまく出来ないくせに「やらせてやらせて」と言ったりする。そうやって穴をあけたら、そこにバターとシナモンと砂糖を入れる。(今思うと、底をふさがないと流れ出てしまうのだけど、そのあたりはどうしていたのかは憶えていない)それをオーブンに入れて焼くと、リンゴの甘酸っぱい匂いがする。シナモンは要は「浅田飴 ニッキ」と同じ匂いで、これまたアタマがフワッとする香りがたちこめる。そうやって出来た「焼きリンゴ」はでろんとした姿で、それまでは「普通のリンゴ」と「鍋で煮たリンゴ」しか見たことなかったので、「お前すごいことになっちゃってるでー」みたいな気持ちで、そのでろりんリンゴをさんざん眺めた、チビの僕だったのだろう。そして、初めて食べるシナモンとバターの混ざったリンゴを、ハフハフと口に入れた、チビの僕だったのだろう。味なんてのは正直言ってそのまんま憶えているのは不可能だから、「おいしかった」なんて言ってみても、その味を舌で再現することも伝えることも出来ないのだけれど、こうやって、今でもその時のことを憶えているということは、かなり美味しく物珍しく感じたということに違いない。こうやって作った手間、楽しさ、匂い、見た目などのアレコレが何年もたっても記憶に残るものになっていくのだろうなぁと。だから、例えば、「焼きリンゴ風味チョコ 〜本物の味〜」とか、「焼きリンゴスナック 〜素材を生かした本格風味〜」とか、あっても、個人的には、なんとなく、お気に入りの人が「あげるわ」とくれたなら「ありがとう」と貰うけれど、自主的には、出来るなら、「そういうのは、よく考えると、妙な気がするなぁ」と、このごろの空の下では思っている。 そんなこんなです。
「はっぴい! アロー&スケルトン」誌のイラストが完了。12月発売。編集部からのお題は、「冷え込みもまた趣深く… 二月の行事&イベント」↓ 編集部からのお題は、「画数多いなァ〜 漢字で書くとややこしい食べ物」↓ 編集部からのお題は、「俺もまだまだイケるぜ! お洒落になるための心得8ヶ条」↓ (このブログへの掲載は編集部の許可を得ています) 最近また、スーパーなどで、「紅玉」という種類のリンゴを置くところが増えた。小振りですっぱめのリンゴだ。僕が小さな頃は普通に売っていたのだけれど、その後、甘めで柔らかくて大ぶりの新しい品種に追われて、店頭では一時見なくなった。お菓子に使う加工用としてずっと生産はされていたらしいが、このごろまたそのままの小売りとしても人気が出てきたらしくて、よく見かけるようになった。僕は、この、「紅玉」が好きだ。酸っぱくて味があり、カリッと歯ごたえがあり、小振りで量的にも丁度よくて。このところ、ずっと買って食べている。「甘っちょろくて大味なのだけが一般」じゃなくなるというのは、今のこの時代的でいいなぁ、とも、思ったり。 そんなこんなです。