よくお寺の前に、
「教訓」や「教え」や「お言葉」みたいなものが貼っている。
あれは何かそういう書くべきような言葉がもともとあるのか、
それともその寺の住職が思ったことを自由に書いたりするものなのか。
それは知らないけれど、
見かけると寺によってその時によって、
違っていたりする。
中には、
「まぁ、解るけどそれはなかなか難しいなぁ」
なんてな教えみたいなものがあったりするのだけれど、
たまに通りかかるお地蔵さんの、
側にある掲示板に貼られている「お言葉」は、
見るたびいつもなかなかにするどい。
この間のはこうだった。
なんだか心の中で「ははっ」と小さく笑ってしまった。
だねぇ。
コドモ「さっ、なんか本気にやる気が出できたから、やるーっ」
大人「へぇ、そうなんや。また珍しいなー」
コドモ「いや、やる気まんまんやから、そんなん言わんといて」
大人「へぇ最近ぜんぜんやってなかったのになぁ」
コドモ「だから本気のやる気が出てきたゆうてるやん!」
大人「へぇ、またいつもみたいに途中でやめたりせえんかー?」
コドモ「もぉーーーっ!せっかくやる気が出てきたのに」
大人「これからはそやってちゃんとやりやー」
コドモ「いやっ、もぉ!なんかやる気がなくなってきた。もうやめるー!」
大人「はいはい」
てな感じかな。
そういえば、
ああいう商品は今でもあると思うのだけれど、
子供の頃、わが家に、
毎日1つの教訓が書かれたカレンダーを、
かけていた頃があった。
例えば、
「道ばたに咲く花にふと目をとめる心の余裕を」
(テキトー)
なんてみたいなことが書かれたりしたものだ。
きっと、あれをかけたのは、
おばあちゃんだなー。
細かいことは忘れたけれど、
「ええやろ? これ。いいことが書いてるやろ? 読んどきや」
なんてきっと言われてたんやろなー。
今でも、
〝真面目〟はジャマにされているのだろうか?
何か一生懸命にちゃんとしていたら、
「マジメやのー」とかちょっとバカにしたように、
言われたりするのだろうか?
昔に比べたら、ちょっとは〝真面目〟が、
再認識、最重視される時代になっている気がするのだけれど、
どうだろうか?
まぁ、それにしても、
大人になっても「マジメやのー」とか言う人は、
そう出来ない自分がなんだかバカみたいに思えるから、
また、それをしている人にムラムラと嫉妬を覚えるから、
ああいう事を言ったりするんだろうなー、
でもきっと自覚はないかもしれないし、
「そういうことなんだろ?」と聴いてもきっと、
「ちゃうわーっ!」と怒ったりするんだろうなー、
と、今となっては解ったりする。
もちろんここで言う〝真面目〟とは、
必ずしも、
「みんながやっているからこれがフツーちゃいますの?」みたいな、
そういう考えのことを言っているワケではない。
いや、そういう事をかたくなに思っている人ほど、
「おまえマジメやのー」とか言いそうな気がする。
で、そういう人は、その延長として、場合によっては、
「アイツ変わってるわー」と言いそうな気がする。
さらに、「あいつはエライからのー」とも言いかねない。
どないやねん。
また逆に、
「向上心」や「探究心」や「ユーモア」や、
「創造力」や「自由さ」をもっている人でも、
持っているかもしれない、
いや、きっとそういう人ほど持っている、
〝真面目〟であったりするんじゃないかと思う。
とそんな事を、
真面目に、かつ自由に考えてみた。
となりの教会が工事中だ。
高齢者のためにエレベーターをつけるのだそうだ。
優しい。
キモチ真面目にやっている。
そんなこんなです。