昨日(9日)、
食事のついでに、
近くのなじみの神社、
弓弦羽神社に寄った。
手を清めるところでは、
例によって、
八咫烏(やたがらす)の口から水が、
にょろにょろにょろー。
僕はこの近所に、
おなじみの神社をいくつか持っていて、
その前を通ると、
たいていの場合、
お賽銭を入れて拝む。
「初詣と厄年の時しか神社に参らない」
そういう人が、
今は多いと思う。
でも、
「ちょっと違うんじゃないか、それ」
と思ったりするのだ。
あまりに都合がよすぎるのだ。
そういうと、
ある友人は、
「こまった時の神頼み、と、昔から言うやん」
と言う。
しかし、
「その結果、
その時に必ず神さまが助けてくれるかどうかは、
言っていないぞ、昔から」
と、
僕はいい返すのである。
人に例えてみよう。
仮にアナタの友人にAさんとBさんがいたとする。
Aさんは普段は知らん顔のくせに、
コマッタ時だけ「お願いしたいコトがあるねんけど」
とやってくる。
Bさんは常日頃、
近くを通りかかったら親しくやってきて、
「ヤァ」なんて声をかけてくれる。
どっちのお願いを聴いてあげたい?
いやいや、
別に僕は「いいコトがありますように」
と思って、
しょっちゅう拝んでいるワケではない。
神社を拝もうと、
拝まないでいようと、
いいコトもあれば、
そうじゃないコトもあるのだ。
人生なんてそんなものなのだ。
ちにみに、
厄年に神社で厄払いをしてもらった25年来の友人は、
その年アレコレと災難があった。
厄年に神社で厄払いをしなかった僕は、
その年結構いいコトがあった。
逆に、
厄年でなくてもタイヘンな時もあるし、
そんなものなのだ。
じゃ、
何故拝むのかと聞かれたら。
そう、
まず、
「そこに神社があるから」。
この国は、
各地のあらゆるところに、
ふとみれば、
神社がある。
お社がある。
そりゃそうだ。
この国は、もともと、
古くから、
神社とともに暮らしてきた国なのだ。
登録している神社だけでも8万社だそうである。
それ以外に登録していない神社もあるらしいので、
もっとである。
「願い事が叶う本」なんて読んでいる場合ではないのだ。
「客寄せの為に作ったお願いスポット」なんて行く必要ないのだ。
ワシらの身近に、
ちゃんと、
アチコチにあるじゃあないか。
神社が。
すぐそこに。
それに、
京都や奈良の「超有名神社」だけが神社ではないのだ。
もちろんそういうところで拝むのもいいのだけれど、
近くのその土地の神社こそが、
その人が日々、
仲良くするべし神社なのだ。
そう思ったりするのだ。
で、
そやって、
身近にある神社の近くを通りかかったときに時々、
「こんにちは。今日は寄りました」
なんて感じで、
挨拶をするかのように、
軽く拝むのだ。
そう、
キモチとして
仲良くしたい親しみを込めて。
で、
そして、
もしそれで「イイコト」があるとしたら、
それは、
「神さまを拝んだ」という表面的な事実ではなく、
日常的にそんな風にモノゴトに対して思うキモチの、
その向こうっ側の、
延長線上のどこかに、
ある。
そういう、
気がするのだ。
そんなこんなです。